歴教協は変われるか〜「あの発言」から1年〜

一年前、京都で開かれた歴教協全国大会の、閉会集会で、若者の勉強会Youth Salonを開いた若手教員が、15分間スピーチをしました。

Youth Salonの記事で書いた内容をベースにしつつ、いろいろなアドリブも入って大いに波紋を呼びかけたものです。

若者がどんどん少なくなっている歴教協。

若者にもっと来てもらうにはどうすれば良いのか、ということについて、以下のような見解が出てきました。

 

もちろん、今の教育現場があまりに忙しい、ということは前提の上で・・・

「どんな意見でも受け入れて議論できる環境づくりが必要だと思います」

「極端な話、安倍首相を私たちの学習会に招いて議論したって良いと思います。そうでなくても、安倍首相に近い人たちの意見を聞いたって良いと思います。聞いた上で何ができるのかを考えて議論する。聞かないことが、まずは問題なのではないかと思います」

「右寄りの人たちがどうのこうのと言っている一方で、左寄りの人たちだってかなり偏った意見を発しているんじゃないかな、というところから、たぶん、若い人たちが遠慮することが出てきているんじゃないか」

他に、広報の問題。SNS等を用いた広報など足りない。

それから、歴教協の授業実践の活用の問題。もっと若者に参考になる内容を、と。

終わってみれば盛大な拍手です。しかし・・・?

 

この発言の何が過激なのか、と考えた時に、不思議な点があります。

安倍首相を学習会に招く、なんてのは、たぶん、普通の感覚では、実現したら素晴らしいこと、自分の国の首相がきてくれることなんてあったらどんなに素晴らしいか、となるんじゃないかと思うんですが、この団体ではそうはならないんですよね。

アベ政治を許さない」等のスローガンを掲げている人が一定数いるという事実があり、それはそれで構わないのですが、安倍首相を別にそんなに嫌っていない普通の人が入りやすい環境とは、到底思えないわけです。

 

ちなみに、なぜかこの「安倍首相」発言は、「安倍首相を全国大会に呼ぶ」という意味であると誤解され、一部から猛烈な反発を買いました。

今、録音を聞き直したところ、そんなことは言っていないんですけどね(笑)。

 

 

誤解されるといけないので言っておきますが、基本的に上記の発言は歴教協のベテランからもある程度好意的に受け止められている印象です。

しかし、一部の、無視できない大きな声の持ち主からの反発があるのは確かですし、さらに困ったことに、その反発は、発言者本人へは届いていないんです。

批判するなら本人にすればいいのですが。

本人もその覚悟で発言しているのですが。

 

前回の記事でも書きましたが、歴教協の設立趣意書の精神は、

「すべての歴史および教育に関心をもつものが協力しなければならない」

です。

もちろん、設立趣意書の精神は、

歴史教育は、げんみつに歴史学に立脚し、正しい教育理論にのみ依拠すべきものであって、学問的教育的真理以外の何ものからも独立していなければならない」

ですから、歴史学なんてどうでもいい、都合の良い事実を羅列しよう、という立場の人たちは相いれません。

しかし、「げんみつに歴史学に立脚」しているかどうかを「私たち似たような思想の持ち主」が恣意的に判断し始めた瞬間に、たとえば「政治的中立性」をある種の権力者たちが恣意的に判断するのと同じような胡散臭さが発生します。

 

歴史教育は、げんみつに歴史学に立脚し、正しい教育理論にのみ依拠すべきものであって、学問的教育的真理以外の何ものからも独立していなければならない。」は、非常に厳しい言葉です。

歴教協にいるなら、その歴史教育が「げんみつに歴史学に立脚し、正しい教育理論にのみ依拠」しているか、判断せよ、と言っているのです。

どれだけの人がこれをきちんとできるのか、私は疑問です。

ここでまた、相変わらず、以前の記事でも紹介したイブン=ハルドゥーンの引用をさせていただくのをお許しいただきたい。

 

《イブン=ハルドゥーン著, 森本公誠訳『歴史序説(1)』(岩波書店, 2001年)p.113-114より引用》

(・・・)虚偽は歴史的情報にとって必然的な付きものである。それが避けられない理由はさまざまである。その一つは、特定の意見や学派への傾倒である。もしある人の心が、情報を容認するのに公平な状態にあれば、その情報に適した調査と考察を加える。そうすれば、それが真実か虚偽かは明らかとなる。しかし、もしもその心が特定の意見や宗派に傾倒していたならば、それに一致する情報を躊躇なく受け入れるであろう。偏見と傾倒は、批判的調査をするための洞察の眼を曇らせる。(・・・)

 

大切なことなのでもう一度言います。

 

「もしもその心が特定の意見や宗派に傾倒していたならば、それに一致する情報を躊躇なく受け入れるであろう。偏見と傾倒は、批判的調査をするための洞察の眼を曇らせる」

 

曇った目で、その歴史教育が「げんみつに歴史学に立脚し、正しい教育理論にのみ依拠」しているか、判断できるとは、私には、到底思えないのです。

憲法守ろう、アベ許さない、という結論に達する教育内容に対して甘くなるのでは、「げんみつに歴史学に立脚し、正しい教育理論にのみ依拠」しているとは言えないのです。

 

じゃあ、目が曇らないためにはどうすればいいのか?

私たち1人1人の頭には限界があります。

違う考えの人の考えを学ぶのが有効でしょう。

 

波紋を呼んだ「あの発言」から1年が経ちました。

歴教協は変われるのでしょうか?