古墳時代像は見直せているか?

私が人生で最も影響を受けた本は、イブン・ハルドゥーンの『歴史序説』でもなく、リュシアン・フェーヴルの『歴史のための闘い』でもなく、北條芳隆・溝口孝司・村上恭通『古墳時代像を見直すー成立過程と社会変革』(青木書店, 2000年)だ、と言ったら大袈裟でしょうか。

 

まず、引用を。

 

「日本考古学において目下支配的な国家形成理論とはなにか。(中略)第二次世界大戦以前の国家形成論と本質的にはどこが違うのか不明な部分が多く、神武天皇畿内地域なる用語に置き換えただけではないかとの疑念を強くいだかざるをえない」

(北條他前掲書ⅵ頁より。北條芳隆・溝口孝司・村上恭通「序」の一部)

 

・・・大学時代、考古学を学んでいた私は、この文章に衝撃を受けました。これはどういうことでしょうか?

 

具体的には、例えば北條氏は、従来の前方後円墳研究における「固定化した理解の実態」のひとつとして、前方後円墳の中の最大のものが「後に天皇と呼ばれる地位に座った大王の墓である」という認識を挙げています。

え?違うの?という声が聞こえてきそうですね。

違う、ではなく、それはどうやって証明できるの?ということだと思います。

北條氏は「生前に天皇の称号が与えられた可能性の高いとされる人物はひとりとして前方後円墳に埋葬されて」いないことを指摘しています。そして、前方後円墳と、方墳・八角墳(天皇という称号を持つ人物が葬られた)とを「連続的に把握しうる根拠があるのかどうか」という点について、「これまで考古学の中でこの問題が証明されたことはない」ということを指摘しています。

「生前に天皇の称号が与えられた可能性の高いとされる人物」とは、遅くて天武天皇以降、早くて推古天皇以降を指しているものと思われますが、たしかに、皆、比定されている古墳は方墳または八角墳です。

前方後円墳を造り続けた政権と、方墳や八角墳を作った政権とを、連続する政権であると捉える根拠はどこにあるのか、ということです。

極端な話、前方後円墳を造った政権を滅ぼして、全く新たな政権として、方墳を造る政権が登場した可能性はないのか、ということになります。

いや、『日本書紀』や『古事記』をみれば・・・という声があるかもしれません。北條氏は以下のように厳しく指摘します。

記紀の成立時点における記述者の、八世紀段階で下された過去に対する歴史的評価を、いわば丸飲み状態で受容していると批判されたとしても、反論のしようがないのである」。

日本書紀』も『古事記』も、8世紀初頭段階の政権側の正統性を示す論理のもとで書かれたものです。だから間違っている、ということではなく、そういうバイアスがあることを前提に読まなければならないものです。

(以上は北條他前掲書pp.12-13より。北條芳隆「前方後円墳の論理」の記述をまとめた)

 

最初に戻りましょう。

「日本考古学において目下支配的な国家形成理論とは(中略)第二次世界大戦以前の国家形成論と本質的にはどこが違うのか」

神武天皇畿内地域なる用語に置き換えただけではないか」

この指摘は、「第二次世界大戦以前の国家形成論」、つまり、皇国史観のような記紀への史料批判の足りない国家形成論から脱却できていないのではないか、という指摘になります。

 

国立歴史民俗博物館の広瀬和雄氏も、北條氏とは異なる国家形成論を持っているはずですが、問題意識としては共通部分があります(以下、広瀬和雄「古墳時代像再構築のための考察」(『国立歴史民俗博物館研究報告』第150集、2009年)より引用)。

 

古墳時代研究に関しては、「中央史観・畿内中心史観」の克服などもひとつの主張になっている」が「各地の史跡公園や歴史・考古系博物館などでは、(中略)「中央史観」がいまなお幅をきかせている」(広瀬前掲論文p.34)

「いったい、前方後円墳が造営され続けた350年間が律令国家を準備した、との通説が十分に検証されてきたのか、というとはなはだ心許ない」(広瀬前掲論文p.35)

(「東国では6世紀後半に前方後円墳が爆発的に増加」し、「それが終焉してからも大型の方・円墳がつづいて築造される」という状況などから、当該時期の東国を「中央集権化の歩みとは整合しがたい」と指摘した上で)「そろそろ、律令国家の正統性を著した『日本書紀』の体系的な叙述と、歴史学研究者を規制してきた発展史観からみずからを解き放たねばならない」(広瀬前掲論文p.35)

「考古学界に関して、繰り返し指摘しておきたいが、史料批判もなしに、『日本書紀』編者の、ひいては律令支配層の歴史観を考慮しないで、考古資料の解釈に「有益」と思えそうな片言隻句だけをとりあげるのは、けっして正しい方法とは言い難いのである」(広瀬前掲論文p.43)

 

こういった議論を踏まえて、教科書や資料集を読んでみましょう。

 

 

たとえば、稲荷山古墳出土鉄剣は授業でよく扱いますが、その鉄剣(ヲワケなる人物が「大王」のもとで「天下」を「左治」した、という内容)とともに眠る人物が何者だと思うか、生徒に聞いてみると良いかもしれません。

「大王に仕える豪族のヲワケが埼玉にきて、その人物が鉄剣とともに眠っている」

「埼玉の豪族のヲワケが、大王に仕えるようになって、その人物が鉄剣とともに眠っている」

「ヲワケは大王に仕える豪族であり、ヲワケのもとで活躍した埼玉の豪族がヲワケから鉄剣を与えられ、鉄剣とともに眠っている」

の3通りの説が研究上は有力なのでしょう(高橋一夫『鉄剣銘一一五文字の謎に迫る・埼玉古墳群 (シリーズ「遺跡を学ぶ」)』(新泉社, 2005年)でも、この3説が挙げられています)。

中でも3つ目が有力なのかもしれません。

よくヲワケはそこに書かれた系譜から阿部氏あるいは膳氏だろう(つまり大王に仕える豪族)と推定されていますし、鉄剣とともに眠る人物については、出土状況から(稲荷山古墳のメインの被葬者は、鉄剣とともに眠る人物ではない、と推定されることから)、それほど身分の高い人物ではないだろう、と考えられるからです。

ところが、ここで問題です。

生徒が、「埼玉の豪族が、大王に派遣されてきたヲワケの軍勢を破って、ヲワケから戦利品として奪ったのがこの鉄剣では?」と推測したら、「違うよ」と言える根拠は何でしょうか?この説は、「ヲワケ=畿内豪族」「被葬者の身分は高くない」の両方と矛盾しません。

前方後円墳を造っているのだから、ヤマト政権に従っているのだよ」とでも答えますか?

しかし、「ヤマトと戦った筑紫の磐井も前方後円墳を造っているよ?」と言われたら?

(歴教協全国大会の現地見学の古墳ツアーでも、同様の話題を出してみました)

 

また、たとえば、吉備(岡山県)の造山古墳は、全長360mもあって、第4位の大きさを誇ります(築造当初はまだ大仙陵古墳もなく、もっと上の順位だったはずです)。

なぜ、造山古墳の主は「地域の豪族」(山川出版社『詳説日本史B』(2016年3月検定)の表現に従う)であるとされるのでしょうか。古墳の大きさを根拠に、ヤマトに大王がいた、とするのなら、一時的にでも、大和ではなく吉備に大王なる権力者がいた可能性はないのか、と生徒が聞いてきたら、どう答えますか?

ちなみに、造山古墳より小さくても大王陵とされている奈良・大阪の古墳はいくつもあります。

 

好奇心ある生徒が、一番大きい方墳は・・・とか調べて、千葉の「龍角寺岩屋古墳」に行き着き、それが同時期と思われる推古天皇などの方墳よりも大きいことを根拠に、「古墳って大きい方が偉いんでしょ?なら千葉にいた岩屋古墳の主の方がヤマトの大王より偉いの?」と聞いてきたら、どう答えますか?

 

八角墳が「大王にのみ固有」(山川出版社前掲教科書)であるという記述をみた生徒が、多摩の稲荷塚古墳が八角墳であることを知って、「多摩にも大王がいたの?」と聞いてきたら、どう答えますか?

 

古墳時代については、それまでの時代と異なり、『日本書紀』『古事記』に体系的な記述が書かれています。いや、もちろん、神武天皇実在論に立てば、もう少し前から、ということになりますが。

問題は、『日本書紀』『古事記』が8世紀初頭の編纂であるということと、ヤマトの立場からの編纂であるということ。あるひとつの立場の言い分だけが残っている、というのが現状なのです。

日本書紀』『古事記』が存在せず、出土した遺構・遺物だけをみていたら、造山古墳の主をどう解釈するのか、稲荷山古墳で鉄剣とともに眠る人物をどう解釈するのか。

「ヤマト以外に日本列島一の権力者がいるわけがない」というバイアスを克服するのは、そう簡単ではなさそうです。

 

旧石器・縄文・弥生、と各時代の区分の問題をここまでいろいろと述べてきましたが、古墳時代という区分について述べる前に、まず、こんな話題を出してみました。

「日本史の授業でLet's対話!!」の古墳時代バージョンも、次回以降で。