「神武天皇」復活論

日本史の教科書に、初めて「天皇」という称号を贈られた人物が登場するのが、古墳時代です。陵墓の話題だったり、ワカタケルや倭の五王の話題だったりするわけです。

 

ふつうに授業を進めていたら、皇国史観教育で花形だった、「神武天皇」も「日本武尊」も「神功皇后」も登場しません。「仁徳天皇」もせいぜい名前だけ。

(「神武天皇」については記紀を紹介する際か、明治維新紀元節の説明をする際に言及されることはあるかもしれませんが)

それが戦後の歴史教育です。

 

敢えてそれを批判したいと思います。

「まだ墨を塗っているの?」と。

 

「教科書は自虐史観なので扱わないが、本当は神武天皇が紀元前660年に日本を建国したのだ」

という言説に対して、今の歴史教育を教科書通りに学んだ生徒たちは、反論できるでしょうか?

 

むしろ、「神武天皇が紀元前660年に日本を建国」と意訳できそうな内容のことが『日本書紀』という史料に書いてあるのに、どうしてそれが史実ではないという話になってしまうのか、生徒に考えてもらえば良いではありませんか。

歴史教育は、歴史学者を育てる教育ではないですが、資料から考える力も養うべきもののひとつなわけです。

「神武東征」などから始まる皇国史観教育を乗り越えたいなら、それを墨で塗るだけ、扱わないだけ、ではダメです。

ただ「神武天皇?知らない!」という生徒を育てているだけでは、「知らないでしょ?それは学校の歴史教育反日サヨクだからだよ」という言説の格好の餌食です。

神武天皇」を教科書から排除するのではなく、「神武天皇が紀元前660年に日本を建国」となぜ言えないのか、という教材を授業で扱える教科書にすべきだったのです。

 

神武天皇」は、教科書から隠せば消える存在ではありません。

短く見積もっても記紀編纂から敗戦頃まで1200年以上にわたって「初代の天皇」として信じ続けられた存在です。

神武天皇」というテクスト上の存在が、実在しようとしまいと、時代が異なる別の人物がモデルであろうと、複数モデルの融合であろうと、「神武天皇が初代の天皇ということになっていた」という1200年以上の過去は消えません。

 

また、伝承上の「天皇」たち(あるいは神話など)について、歴史学的な議論を踏まえて扱うことには、地域に根ざした教育への寄与という意味もあります。

地域で親しまれている神社に祀られている神や、創建の伝承(伝承上の「天皇」たちの代とされているケースも多い)などと結びつけやすいからです。

寺院であれば、日本史の授業で様々な僧侶や宗派について学ぶので、円仁が創建したとか、浄土真宗だとか、地域の寺院にそのような由緒があれば、授業の内容が結びつけやすいものですが、神社については、なかなかそうもいきません。

調べ学習をしたら、結局、専らネット上の情報に頼ることになる可能性もあります。

 

「神話や伝承は歴史ではないのだから、載せるべきではない」という意見もあるでしょう。

「神話や伝承は歴史ではない」からこそ、神話も伝承も扱わない、ではなく、歴史が何なのかを考える教材にしてはどうでしょうか。

歴史が何なのか、というのも簡単なことではありません。過去と歴史は異なるわけです。事実だけを扱うのだ、という簡単なものではありません。例えば当時そんな名前のものはなかった「鎌倉幕府」を扱うわけですから。その際に、神話や伝承との違いというのは良い切り口のひとつになりそうな気がしませんか?

また、すでに述べたように、神話や伝承が、歴史とどのように区別されるのかを学ばなければ、「皇国史観」を乗り越えたことにはならないのです。

また、それらの神話や伝承が語り継がれた歴史はあり、日本史に大きな影響を与えているのです。

・・・ということを踏まえて、あえて「神武天皇」に塗られた墨の上から、歴史学的な観点からの「神武天皇」を上書きすることを提案したいと思います。

 

※前回の記事に引き続き、これも、古墳時代についてのメイン記事ではありません。「日本史の授業でLet's対話!!」の古墳時代バージョンも、次回以降で。

古墳時代像は見直せているか?

私が人生で最も影響を受けた本は、イブン・ハルドゥーンの『歴史序説』でもなく、リュシアン・フェーヴルの『歴史のための闘い』でもなく、北條芳隆・溝口孝司・村上恭通『古墳時代像を見直すー成立過程と社会変革』(青木書店, 2000年)だ、と言ったら大袈裟でしょうか。

 

まず、引用を。

 

「日本考古学において目下支配的な国家形成理論とはなにか。(中略)第二次世界大戦以前の国家形成論と本質的にはどこが違うのか不明な部分が多く、神武天皇畿内地域なる用語に置き換えただけではないかとの疑念を強くいだかざるをえない」

(北條他前掲書ⅵ頁より。北條芳隆・溝口孝司・村上恭通「序」の一部)

 

・・・大学時代、考古学を学んでいた私は、この文章に衝撃を受けました。これはどういうことでしょうか?

 

具体的には、例えば北條氏は、従来の前方後円墳研究における「固定化した理解の実態」のひとつとして、前方後円墳の中の最大のものが「後に天皇と呼ばれる地位に座った大王の墓である」という認識を挙げています。

え?違うの?という声が聞こえてきそうですね。

違う、ではなく、それはどうやって証明できるの?ということだと思います。

北條氏は「生前に天皇の称号が与えられた可能性の高いとされる人物はひとりとして前方後円墳に埋葬されて」いないことを指摘しています。そして、前方後円墳と、方墳・八角墳(天皇という称号を持つ人物が葬られた)とを「連続的に把握しうる根拠があるのかどうか」という点について、「これまで考古学の中でこの問題が証明されたことはない」ということを指摘しています。

「生前に天皇の称号が与えられた可能性の高いとされる人物」とは、遅くて天武天皇以降、早くて推古天皇以降を指しているものと思われますが、たしかに、皆、比定されている古墳は方墳または八角墳です。

前方後円墳を造り続けた政権と、方墳や八角墳を作った政権とを、連続する政権であると捉える根拠はどこにあるのか、ということです。

極端な話、前方後円墳を造った政権を滅ぼして、全く新たな政権として、方墳を造る政権が登場した可能性はないのか、ということになります。

いや、『日本書紀』や『古事記』をみれば・・・という声があるかもしれません。北條氏は以下のように厳しく指摘します。

記紀の成立時点における記述者の、八世紀段階で下された過去に対する歴史的評価を、いわば丸飲み状態で受容していると批判されたとしても、反論のしようがないのである」。

日本書紀』も『古事記』も、8世紀初頭段階の政権側の正統性を示す論理のもとで書かれたものです。だから間違っている、ということではなく、そういうバイアスがあることを前提に読まなければならないものです。

(以上は北條他前掲書pp.12-13より。北條芳隆「前方後円墳の論理」の記述をまとめた)

 

最初に戻りましょう。

「日本考古学において目下支配的な国家形成理論とは(中略)第二次世界大戦以前の国家形成論と本質的にはどこが違うのか」

神武天皇畿内地域なる用語に置き換えただけではないか」

この指摘は、「第二次世界大戦以前の国家形成論」、つまり、皇国史観のような記紀への史料批判の足りない国家形成論から脱却できていないのではないか、という指摘になります。

 

国立歴史民俗博物館の広瀬和雄氏も、北條氏とは異なる国家形成論を持っているはずですが、問題意識としては共通部分があります(以下、広瀬和雄「古墳時代像再構築のための考察」(『国立歴史民俗博物館研究報告』第150集、2009年)より引用)。

 

古墳時代研究に関しては、「中央史観・畿内中心史観」の克服などもひとつの主張になっている」が「各地の史跡公園や歴史・考古系博物館などでは、(中略)「中央史観」がいまなお幅をきかせている」(広瀬前掲論文p.34)

「いったい、前方後円墳が造営され続けた350年間が律令国家を準備した、との通説が十分に検証されてきたのか、というとはなはだ心許ない」(広瀬前掲論文p.35)

(「東国では6世紀後半に前方後円墳が爆発的に増加」し、「それが終焉してからも大型の方・円墳がつづいて築造される」という状況などから、当該時期の東国を「中央集権化の歩みとは整合しがたい」と指摘した上で)「そろそろ、律令国家の正統性を著した『日本書紀』の体系的な叙述と、歴史学研究者を規制してきた発展史観からみずからを解き放たねばならない」(広瀬前掲論文p.35)

「考古学界に関して、繰り返し指摘しておきたいが、史料批判もなしに、『日本書紀』編者の、ひいては律令支配層の歴史観を考慮しないで、考古資料の解釈に「有益」と思えそうな片言隻句だけをとりあげるのは、けっして正しい方法とは言い難いのである」(広瀬前掲論文p.43)

 

こういった議論を踏まえて、教科書や資料集を読んでみましょう。

 

 

たとえば、稲荷山古墳出土鉄剣は授業でよく扱いますが、その鉄剣(ヲワケなる人物が「大王」のもとで「天下」を「左治」した、という内容)とともに眠る人物が何者だと思うか、生徒に聞いてみると良いかもしれません。

「大王に仕える豪族のヲワケが埼玉にきて、その人物が鉄剣とともに眠っている」

「埼玉の豪族のヲワケが、大王に仕えるようになって、その人物が鉄剣とともに眠っている」

「ヲワケは大王に仕える豪族であり、ヲワケのもとで活躍した埼玉の豪族がヲワケから鉄剣を与えられ、鉄剣とともに眠っている」

の3通りの説が研究上は有力なのでしょう(高橋一夫『鉄剣銘一一五文字の謎に迫る・埼玉古墳群 (シリーズ「遺跡を学ぶ」)』(新泉社, 2005年)でも、この3説が挙げられています)。

中でも3つ目が有力なのかもしれません。

よくヲワケはそこに書かれた系譜から阿部氏あるいは膳氏だろう(つまり大王に仕える豪族)と推定されていますし、鉄剣とともに眠る人物については、出土状況から(稲荷山古墳のメインの被葬者は、鉄剣とともに眠る人物ではない、と推定されることから)、それほど身分の高い人物ではないだろう、と考えられるからです。

ところが、ここで問題です。

生徒が、「埼玉の豪族が、大王に派遣されてきたヲワケの軍勢を破って、ヲワケから戦利品として奪ったのがこの鉄剣では?」と推測したら、「違うよ」と言える根拠は何でしょうか?この説は、「ヲワケ=畿内豪族」「被葬者の身分は高くない」の両方と矛盾しません。

前方後円墳を造っているのだから、ヤマト政権に従っているのだよ」とでも答えますか?

しかし、「ヤマトと戦った筑紫の磐井も前方後円墳を造っているよ?」と言われたら?

(歴教協全国大会の現地見学の古墳ツアーでも、同様の話題を出してみました)

 

また、たとえば、吉備(岡山県)の造山古墳は、全長360mもあって、第4位の大きさを誇ります(築造当初はまだ大仙陵古墳もなく、もっと上の順位だったはずです)。

なぜ、造山古墳の主は「地域の豪族」(山川出版社『詳説日本史B』(2016年3月検定)の表現に従う)であるとされるのでしょうか。古墳の大きさを根拠に、ヤマトに大王がいた、とするのなら、一時的にでも、大和ではなく吉備に大王なる権力者がいた可能性はないのか、と生徒が聞いてきたら、どう答えますか?

ちなみに、造山古墳より小さくても大王陵とされている奈良・大阪の古墳はいくつもあります。

 

好奇心ある生徒が、一番大きい方墳は・・・とか調べて、千葉の「龍角寺岩屋古墳」に行き着き、それが同時期と思われる推古天皇などの方墳よりも大きいことを根拠に、「古墳って大きい方が偉いんでしょ?なら千葉にいた岩屋古墳の主の方がヤマトの大王より偉いの?」と聞いてきたら、どう答えますか?

 

八角墳が「大王にのみ固有」(山川出版社前掲教科書)であるという記述をみた生徒が、多摩の稲荷塚古墳が八角墳であることを知って、「多摩にも大王がいたの?」と聞いてきたら、どう答えますか?

 

古墳時代については、それまでの時代と異なり、『日本書紀』『古事記』に体系的な記述が書かれています。いや、もちろん、神武天皇実在論に立てば、もう少し前から、ということになりますが。

問題は、『日本書紀』『古事記』が8世紀初頭の編纂であるということと、ヤマトの立場からの編纂であるということ。あるひとつの立場の言い分だけが残っている、というのが現状なのです。

日本書紀』『古事記』が存在せず、出土した遺構・遺物だけをみていたら、造山古墳の主をどう解釈するのか、稲荷山古墳で鉄剣とともに眠る人物をどう解釈するのか。

「ヤマト以外に日本列島一の権力者がいるわけがない」というバイアスを克服するのは、そう簡単ではなさそうです。

 

旧石器・縄文・弥生、と各時代の区分の問題をここまでいろいろと述べてきましたが、古墳時代という区分について述べる前に、まず、こんな話題を出してみました。

「日本史の授業でLet's対話!!」の古墳時代バージョンも、次回以降で。

弥生文化を選ばなかった人々への視点

ここまで、日本列島の旧石器時代の文化は「岩宿文化」と呼ぶべきかもしれない、「縄文文化」ではなく「大森文化」と呼ぶべきだ、と言いたい放題でしたが、「弥生文化」は、その最初に発見された弥生町遺跡から名前を採っており、命名自体に不満はありません。

 

現状に対してものを言いたいのは、「弥生文化」を選ばなかった(水稲農耕中心の生活を選ばなかった)地域の文化、「続縄文文化」「貝塚文化」についての扱いが小さいことです。山川出版社の『詳説日本史B』(2016年3月検定)では、下の小さい文字で書かれた欄に太字で表記、という扱いです。おそらく、太字であることに何かの主張があるのでしょう。

 

現行の高校学習指導要領でも、新指導要領でも、それらの扱いはとくに記されていません。

琉球」「アイヌ」であれば、新指導要領には登場します(現行の指導要領でも、「解説」には載っていますが)。

しかし、「琉球」「アイヌ」の文化が生まれる前の段階が、すっぽり抜けてしまう危険性があります。

「続縄文文化」(この名称もどうかと思います。前回の記事で「縄文文化」を「大森文化」と勝手に変えてしまったように、何か思いついたら変えたいです)については、ただ「北海道に住んでいた人々は水稲耕作をしなかった」という文脈だけではなく、その後、北東北までこの文化が広がっていく(おそらくエミシと関係してくるでしょう)という大事な要素があります。弥生文化の方が優れていて、どんどん広がっていくのだ、という固定観念は通用しません。

また、琉球方面について言えば、沖縄本島などを中心とする文化だけではなく、先島諸島宮古島石垣島など)にも目を向けたいところです。先島はそもそも大森文化(縄文文化)の影響も少なく、弥生文化と同じ頃には土器を持たない文化になっています。台湾やもっと南方の海洋文化とのつながりを考えることができます。

そのような言い方をすると、そういうことなら北海道や琉球以外にも・・・という声や、逆に、そんなローカルな文化まで全部入れたらきりがない、という声などが聞こえてきそうです。

文化の多様性を扱う、という意味においては、前者の主張がもっともですし、扱う量に限度がある、という意味においては、後者の主張がもっともです。

しかし、北海道方面の文化や、琉球・先島の文化をもっと扱うべき、というのには、文化の多様性を学ぶ以外の別の理由が2つあります。

 

1つ目は、現在の国境では捉えられない交流を学べるからです。

先島であれば台湾やフィリピンとの繋がり。

北海道であればオホーツク海やサハリンとの繋がり。

九州などと朝鮮半島・中国の繋がりについては、すでにかなり扱われていると思いますが、それだけが外との関係ではありません。

 

・・・今、わざと「外との関係」と言いましたが、不適切ですよね?

これが、今の国境という固定観念に囚われた見方です。

国境がないのだから、先島に住んでいた人たちにとって、九州に住んでいた人が同胞で、台湾に住んでいた人が外である、という感覚はあり得ません。

「岩宿(旧石器)→大森(縄文)→弥生→古墳時代のヤマト政権→日本!」

という一直線の時代観では、まるで今の日本というまとまりが、日本国誕生以前からあったかのような錯覚を覚えてしまいます。

そこでいい薬になるのが、今の国境と関係なく動いていた人たちの営みになるわけです。

新指導要領にも、日本史探究の「原始・古代の日本と東アジア」のところには、「中国大陸・朝鮮半島などアジア及び太平洋地域との関係」に着目するよう書かれています。「などアジア及び太平洋地域」という語がある以上は、ぜひ、と思います。

※この発想でいくのであれば、マリアナ諸島などとの繋がりの指摘される小笠原の先史文化も無視できない、となります。

 

2つ目は、流行りの言葉で言えば、「多面的・多角的な考察」というものですね。これは大切なことだと思います。

「多面的・多角的な考察」にこだわるなら、弥生文化を、水稲耕作を受け入れなかった側から考察するのは、非常に有効なはずです。

受け入れるのは当たり前のことではありません。

先島の無土器文化などはもっとショッキングかもしれませんね。土器すら用いるのをやめる(台湾との繋がりが想定される土器を用いていた時期も、もっと古い時期にはあったのですが)のですから。

土器を用いている方が発展しているのだ、とか、農耕を行う方が発展しているのだ、とか、そういう一面的な進歩史観から脱することができるのが、北海道や琉球・先島の先史文化を学ぶ意味だと思います。

 

・・・というわけで、弥生文化については、とくに文句はないと言いましたが、次に出てくる「古墳時代」との関係については・・・それは次の記事に譲りましょう。

 

☆日本史の授業でLet's対話!!

①農耕のメリットとデメリットは何でしょう?

(デメリット、が肝心です。上記の記事で述べたような、水稲耕作を受け入れなかった地域まで視野に入ってきます。サピエンス全史風になりますが、貧富や身分の差、戦争の発生などだけでなく、健康に与えた影響などまで視野に入れられると良いですね。「当時の人々は、そのメリットやデメリットを想像できたでしょうか?」と問いかけると、イノベーションの落とし穴が見えてきます)

②ところで、今、米どころと言ったらどこでしたっけ?

(中学校までの知識で、生徒たちは北海道や新潟県、東北諸県といった寒い地域を思い浮かべます。ところが、北海道は弥生文化を受け入れない地域なわけです。そこから、稲が南方系のものであることなどに触れていきつつ、じゃあなぜ今の日本では寒い地域が・・・?などと聞いてみると、生徒から「品種改良」という言葉が漏れてきたりします)

弥生文化の開始年代、議論が分かれているのはなぜでしょう?

(教科書や資料集によって微妙に数字が異なったりします。その理由に、科学的な調査結果があるわけですが、「科学的な調査が行われたのなら、それが正しいのでは?」「なぜ反論があるの?」などと話が進んでいくと、科学は万能ではない、あるいは、科学は万能かもしれないがそれを用いる人間は万能ではない、という事実に突き当たったりするかもしれません)

④「魏志倭人伝を読んでみよう!〜たとえば、「なぜ景初3年」?〜

(ベタな話題ですが、やはり面白いんですよね。たとえば、教科書などにも本文の引用されていますが、なぜ「魏志倭人伝には卑弥呼の遣使が「景初2年(238)」と書かれているのに、わざわざ「景初3年(239)」の誤りである、と解釈しているのか。こういう細かいところが使えたりします。実は他の史料には景初3年と書いてあるとか、遼東の公孫淵の状況とか、そういうことが問題になってくるわけで、史料批判という作業の追体験を出来たり、国際情勢の中で「親魏倭王」を捉える視点を得られたりします

⑤「旧石器時代新石器時代青銅器時代鉄器時代」を日本列島の歴史に当てはめてみると・・・?

(鉄器が出てきたところで、こんな作業をすると、各文化の諸要素を振り返ることができ、良い復習になります)

「縄文時代」?「大森時代」?「長い」?「最古の土器」?

埼玉で行われた歴教協全国大会の現地見学の古墳コースでは、途中、群馬県立歴史博物館を見学しました。

その際にみた土器の中に、吉ヶ谷式土器、という埼玉の弥生土器があります。

この土器、縄文があるのが特徴なんですよね。

縄文が施されている弥生土器は、茨城の十王台式土器なども有名ですが、東日本ではそう珍しくはありません。

モースが偶然見つけた大森貝塚の土器に縄目の文様がついていて、その文様、つまり「縄文」が、いろいろな成り行きにより、日本列島における「土器は作っているけれど農耕社会ではない時期」の文化の名称に冠されているわけです。

しかし、もし偶然、先に吉ヶ谷や十王台の縄文のある土器が先に発見されて「縄文土器」と名付けられていたら、どうなっていたのでしょう?

 

また、「縄文時代」に作られた土器の中に、縄文のないものはいくらでもあります。

縄文時代」に作られた、縄文のない隆起線文土器をみて、「縄文土器だ」というのは、どうなんでしょう?

 

長年にわたって親しまれた(そして研究史にも定着した)「縄文土器」「縄文時代」「縄文文化」という言葉を批判するのは、とても勇気がいるのですが、文化の名称としては、やはり最初に発見された遺跡である大森貝塚から命名した「大森文化」あたりが妥当なのではないかと思います。

そして、その時代を指し示す語が必要であれば、「大森時代」が良いのではないか、と思います。

こちらは「岩宿時代」と異なり、用例が見当たりませんね。

 

さて、勇気を奮って、ここからは「大森文化(縄文文化)」と呼ばせてもらいます。

大森文化(縄文文化)の特徴は、「土器は作っているけれど農耕社会ではない」ということです。

大森文化(縄文文化)は旧石器時代には属さないのでしょうが、かといっていわゆる新石器時代の文化とも異なります。農耕・牧畜を基軸とする社会ではないからです。

その状態が1万年にわたって続いた、というのが、興味深いところなのかもしれません。

 

さて、よくある話を2つ。

①「縄文時代ってなんで他の時代に比べてそんなに長いの?」

②「縄文土器って世界最古なんでしょ!日本すごい!」

 

まず、①について。

たしかに、「土器は作っているけれど農耕社会ではない」が1万年続いたのは興味深い特徴ですが、他の時代、つまり「平安時代」や「明治時代」に比べて長い、という比較には意味がありません。

そのような比較をしてしまう生徒が実際にいますが、それは、生徒が悪いのではなく、教科書か、教員の教え方に問題があるのでしょう。

なぜその比較に意味がないのか。

それは、時代の「定義」が全く異なるからです。

同じ「時代」という名称を用いていますが、指し示しているものが違います。

たとえば、あなたが今年のゴールデンウィークにニューヨークに行ったとしましょう。その1週間をあなたが「ニューヨーク時代」と名付けたとしましょう。

「小学校時代」が「ニューヨーク時代」よりも長い、と比較する意味はありますか?

と言えば、比較する意味がないことはわかりますね。

縄文時代」(いや、大森時代!?)は、日本列島という地域(の大部分)の先史時代の人々の生活の特徴から区分した時代です。

平安時代」は日本という国家の権力者が主に平安京を中心に政治をしていた時代です。「明治時代」は日本という国家で明治という元号が用いられていた時代です。

全く違いますね。

 

次に、②について。

世界最古かどうかを証明することは難しいです。

今発見されている中で・・・ということは言えるかもしれません(いや、言えないかもしれません。中国、湖南省の玉蟾岩洞窟や江西省の仙人洞などの洞窟遺跡の土器などがかなり古いと言われていますので)。

ただ、確実に言えるのは、仮に日本列島で世界最初の土器が作られたことが証明されたとして(証明は無理だと思いますが)、だから日本文明だ、日本人すごい、と主張するのは、とても滑稽なことだ、ということです。

世界最初の石器が仮にケニアで作られたとして、ケニア文明だ、ケニア人すごい、と言うのと五十歩百歩です。

 

今の国境ができたのは、日本列島で土器が作られてから1万何千年も後のこと。今の国境を当時の出来事に当てはめる意味は特にありません。

もしかしたら、世界最古級の土器を作った人々の血を、今の日本人の一部はわずかにひいている可能性はあるでしょうが、だから何なのか、という話です。

 

その土器に縄文をはじめとする複雑な文様を施した彼らの意識は大変興味深いですし、技術的にも難しかっただろうと推察しますが、残念ながら、自称彼らの子孫である人々は、その文様の意味も(様々な推測はありますが)忘れてしまいました。

たしかにあの火焔土器は素晴らしい、と私も思います。でも、忘れてしまった文化を、意味もわからないのに、我が事のように自慢するのは、何かおかしいように私は思います。

 

「土器は作っているけれど農耕社会ではない」状態が1万年続いたという、その1万年の間に培われた文化の中で、私たちが受け継いでいるものは、どれくらいあるのでしょう?

 

※以下のコーナーは2019年8月16日に一部加筆

 

☆日本史の授業でLet's対話!!

①どのようにして土器は発明されたのだろうか?

(土器の作り方、ではなく、そんな特別な作り方をするものを、どうやって作り始めたのか、という視点。おそらく偶然から生じたイノベーションだろうが、自由な発想が求められます)

②なぜ土器を作り始めたのだろうか?

(①と似て非なる発問。「食生活が変化したから?」「どう変化したのだろう?」と対話が続きます)

③なぜ土器に文様をつけたのだろうか?

(答えはわからないのだが、いろいろな答えを考えてもらった上で、「ごめん、私もわからないんだ」と白状することがあっても良いでしょう。そもそも、そんな昔のこと、ほとんどのことはわからないのです。教科書には、土器に文様が施されたことは書いてあっても、その理由は書いてありません。教科書に載っていることは、今わかるほんのわずかなことである、ということを理解してもらいましょう)

④文字もインターネットもない時代に、どのようにして「遠方との交易」が行われたのだろうか?

(教科書や資料集に必ず載っている、黒曜石や翡翠の交易ですが、「お互いにどうやって知ったのか?」「地図とかないでしょ?」「隣の集落どうしでの交換が長い時間をかけて・・・ということでは?」などといろいろな発想が出てきます)

⑤大森文化(縄文文化)の人々の生活の中で、今の私たちにも共通しているものは何だろうか?

(いろいろ答えは出てくるでしょうが、たとえば漁労などに気づいてほしいところです。日本人は米が主食、ということで次の弥生文化でも稲作が始まったことを詳しく解説することになるのでしょうが、それを相対化できます。日本食の特色のひとつは多様な魚介類にあるのだと思いますが、稲作よりも1万年長い漁労の伝統を知るのは、自文化理解の一助となるでしょう)

「旧石器時代」?「岩宿時代」?それとも・・・

※文末に「日本史の授業でLet's対話!!」あり(2019年8月15日加筆)

 

埼玉で行われた歴教協全国大会の最後は、現地見学。地域の教材となりそうな見所をめぐるツアーです。私はその中で、群馬・埼玉の古墳コースを担当しました。

古墳とは関係ないのですが、途中で岩宿遺跡の博物館に寄りました。

この博物館の特色のひとつとして、私たちが授業で「(日本列島の)旧石器時代」として扱う時代を、「岩宿時代」と呼んでいる、という点があげられます。

 

これは、単なる郷土愛やお国自慢の話ではありません(ですよね?)。

 

そもそも、今の歴史教育においては、「縄文時代」の前を「旧石器時代」と呼んでしまいがちだと思うのですが、これはやや誤解を生む危険性があります。

どのような誤解かというと、「縄文時代の前は旧石器時代」「旧石器時代縄文時代」という誤解です。

誤解、というのは言い過ぎかもしれませんが、この認識は必ずしも正確ではないと思います。

旧石器時代とは、世界史・人類史の先史時代の区分で、

旧石器時代 →(中石器時代)→新石器時代青銅器時代→・・・

などという変遷の一場面です。

なので、岩宿遺跡の発見は、「日本列島にも旧石器時代が存在した」ことの証明になった、となるわけです。

 

ちなみに、旧石器時代は英訳するとPaleolithic Age、縄文時代を英訳するとJōmon periodです。

同じ「時代」といっても、意味合いが異なるわけです。

 

旧石器時代の文化については、たとえば、ユーラシア大陸西部あたりには「オーリニャック文化」と命名された文化があり、アメリカ大陸北部あたりには「クローヴィス文化」と命名された文化がありました。

オーリニャックもクローヴィスもその文化の発見の契機になったような代表的な遺跡・地名です。

仮に、日本列島の旧石器時代の文化に何か命名をするのであれば、その発見の契機になった岩宿遺跡の名を冠して「岩宿文化」とするのが妥当でしょう。

それをどうしても「xx時代」などと呼びたいのであれば、「岩宿時代」「岩宿期」などとするのが妥当でしょう。

そういう意味で、岩宿博物館の用いる「岩宿時代」という語には妥当性があります。

 

ただし、気をつけなければならないのは、以下の2点です。

・約2万年にわたる日本列島の後期旧石器時代を、ひとつの文化としてまとめて良いのか?

ユーラシア大陸東部の後期旧石器時代の中で日本列島の文化を近隣地域から区分する解釈は妥当なのか?あるいは、日本列島の中での地域差は、ひとつの文化としてまとめて良い程度の差異なのか?(当時を考える上で全然関係のない現在の国境が固定観念になっていないか?)

 

列島外からの出土の少ない局部磨製石斧をひとつの特色とする後期旧石器時代前期と、北方などから入ってきた細石刃をひとつの特色とする後期旧石器時代後期と、ひとまとめに「岩宿文化」「岩宿時代」と名付けて良いのか、というのは、簡単な問題ではありません。

 

そんなわけで、現状は、(教科書も気をつけた記述になっているのですが)「日本列島にも旧石器時代があった」という世界史的・俯瞰的な見方をした上で、「1万数千年前に土器を伴う文化が・・・」と次の文化を紹介する際に、ユーラシア東部諸地域の旧石器・中石器・新石器時代の代表的な文化の変遷を図化して示したりすると良いのかもしれませんね。

 

※以下、2019年8月15日加筆(2019年8月16日にさらに加筆)

 

☆日本史の授業でLet's対話!!

①なぜそんな昔のことが「xx年前」だとわかるのだろう?

(文字がないのに、などと最初から言わない方が良いと思っています)

②人類が最初に用いた道具の材料は何だと思う?

(これで問うと、ちょっと勉強した生徒は「石!」と答えますが、そこで、「あなたが無人島に何も持たずに流されたら、何で道具を作る?」という聞き方に変えると、「木かな・・・」などと答え始めます)

③なぜ石や金属の道具で時代区分をするのだろう?

(②と関連した発問。「木ではダメな理由は?」と聞くと、だいたい答えに行き着きます。②③によって、「今、私たちがわかるのは当時の生活のごく一部の、偶然残っているものだけである」ということや、「時代区分は今の研究者が当時を解釈するためのものである」ということなどを、実感できます)

ナウマンゾウ、オオツノジカ、ヘラジカなどを狩猟したというけれど、それらの動物はどうなったのだろう?

(調べてみよう、というのも良いでしょう。教科書や資料集に載っていないなら、スマホを出してもらえば良いです。絶滅した、という事実と、向き合ってもらいます。世界各地で、サピエンスが到達すると大型哺乳類が絶滅するのだ、とサピエンス全史風に紹介して、サピエンスが他の動物とどう異なるのかを考えてもらっても良いでしょう)

⑤旧石器捏造事件、なぜなかなか捏造に気がつかなかったのだろう?

(新聞記事などを見せると良いでしょう。研究の難しさに気づいてもらうのも大切ですが、それ以上に、「日本にもっと古くから人類がいたのだ!」と盛り上がってしまった現実から、「なぜそれで盛り上がるのか?」「先祖のことだから?」「本当に先祖?」「それなら先祖は全員アフリカ出身では?」「当時日本とかあったの?」などと話し合う中で、今の国境からくる固定観念や、歴史とナショナリズムの関係について、そういう用語は用いずとも、思いを巡らせることができます)

元号・西暦でなく〜保立道久案からの思考実験〜

今回は、とある問題提起について真面目に捉えつつ、最後にちょっと遊びたいと思います。

 

私たちは西暦(キリスト紀年)と元号と干支("干"の方はほとんど用いられないが)によって年を表すことが多いですが、Twitterやブログで盛んに西暦でも元号でもない紀年法を提唱している歴史学者がいます。

時代区分の見直しでも知られる保立道久氏です。

 

ブログで言うと、「核時代後という紀年法について」という記事が最もまとまっているでしょうか。

Twitterでは、

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というBotでの普及に努めているようです。

 

核時代紀年法は保立道久氏の長年のアイデアですが、この問題提起がどれくらい歴史学歴史教育の世界で扱われてきたでしょうか。

 

「核時代後」の是非の前に、まず、保立氏の元号・西暦への批判から確認したいと思います。

①年号は、直線的で、ずっとつづく連続数でなければならない

②その点では、元号でなく、西暦が便利

③だが、西暦には、ヨーロッパ中心史観の影がある

というものです。

よって、西暦に代わるものを、ということになります。

 

まず、①②について。

たしかに、元号によって年代を表す数字がとぎれとぎれになるのは、前後関係がわかりにくいというデメリットがあります。

紀元1000年と紀元1100年の出来事でどっちが先なのかは一目でわかりますが、長保2年と康和2年の出来事でどっちが先かと言われると、それぞれの元号をまず知らなければならないので、不便です。

歴史を研究したり学んだりする上での利便性の面から言えば、①②は正論です。

そして、③についても、まさにその通りなのですが、そこで問題が生じます。

ならヒジュラ暦にすれば良いのか、皇紀にすれば良いのか、等々考えると、どれもうまくいかないのです。西暦がヨーロッパ中心だからダメだというのなら、既存の他の紀年法もダメということになるからです。

そこで、保立氏が提唱したのが核時代後という紀年法です。

核兵器が用いられた1945年を起点とするもので、その理由はブログを参照していただければと思います。

 

メリットとしては、保立氏も繰り返し主張している「地質学などで使用されるBefore Presentの考え方にも近」い、ということが挙げられます。

Before Present(BP)とは、放射性炭素年代で産出される年代の表記法で、大気圏内核実験による放射線の影響をあまり受けていない1950年を起点として「xx年前」と表すものです。たしかに、1945年を起点とすれば、BPの考え方と大差なくなります。

また、核兵器の脅威は人類共通のものであり、キリストの生年を基準にするよりは世界共通の紀年法にふさわしいものに見えます。

 

ここで、他の識者の意見も見てみましょう。

山川出版社の世界史リブレットから『世界史における時間』(山川出版社, 2009年)を著した佐藤正幸氏は、なんだかんだ言ってキリスト紀年(西暦)を用いることを主張しています。

・現在のキリスト紀年は宗教性をほとんど失っている

・起算年はキリストの生年ではない

・表記法はインド生まれのアラビア数字

・キリスト紀年は、千数百年の歴史の中で、時代の要求に応じて柔軟に変化して現在まで使われ続け、世界の共通紀年となっている

という理由により、キリスト紀年(西暦)が世界共通でいい、となります。

しかし、佐藤氏は同時に、この紀年法の欠陥も指摘しています。

「紀元ゼロ年が存在しない」というものです。

 

西暦が普遍的なものになり得るか、なり得ないか、という点で保立氏と佐藤氏で意見が割れていますが、もう少し掘り下げてみましょう。

 

保立氏が述べるように、紀年法は、直線的で、ずっとつづく連続数であった方が便利です。

ならば、なぜ、どこかの時点を境にして「紀元前」「紀元後」あるいは「核時代前」「核時代後」などと区切らなければならないのでしょうか。

ある時点までは年代をカウントダウン(・・・、紀元前100年、紀元前99年、紀元前98年、・・・)して、ある時点からはカウントアップ(紀元1年、2年、3年、・・・)していく。

そこに出てくる数字は結果的に、キリスト紀元なり核兵器使用なりの年からの距離を表していることになりますが、それにどのような意味があるのでしょうか。

保立氏によると、「歴史学にとっては、時間のクロノロジカルな、客観的な進行を表記することは必須のこと」とのこと(「歴史地震の呼称に元号を冠するのは適当ではない」という記事より引用)。

それであれば、むしろ、カウントダウンのない紀年法にするべきではないでしょうか。

 

そうすると、以下のアイデアが生まれます。

・ビッグバンからの紀年法(時間は宇宙の誕生から始まった?)

・太陽系あるいは地球誕生からの紀年法(公転周期を基準としている以上は・・・)

・人類誕生からの紀年法(時間を決めるのは人。以下はその発想から)

ホモ・サピエンス誕生からの紀年法

・歴史時代の始まりからの紀年法

・時間・暦の概念の誕生からの紀年法

ビッグバン紀年法以外は、「それ以前を表すには結局"xx前"という言い方になるではないか」という批判がありそうですが、「それ以前は人類の歴史の流れを示すこの紀年法で年代を表す意味がない。"〜年前"と言えば良い」という発想です。

歴史学が主な対象とする時期において「カウントダウン」がなければ良い、という発想に基づけば、上記のいずれも妥当になります。

 

ところが、これらには重大な欠点があります。

その「紀元」がいつなのかがはっきりとわからない、ということです。

また、上から4つの場合、莫大な数字になってしまって却ってわかりにくいという問題点も持ちます。

 

そして、これを言ってしまっては元も子もないのですが・・・西暦はたしかに西洋由来のもので、文化的な偏りを持つのですが、佐藤氏が言うように、それが利便性と柔軟性を持って広まったのも事実なのです。

近代的な歴史学がほとんど西暦をベースになされてきたことも無視はできません。

イデアとしてより良いものが出てきたとしても、いきなり変えろというのには無理があります。

 

とはいえ、西暦にも佐藤氏も指摘するゼロ年がないという欠陥があり、すでに述べたカウントダウン・カウントアップの問題があります。

 

では、どうすれば良いのでしょうか?

 

ここで、ちょっとふざけた遊びをしてみましょう。

なんとなく、西暦に10000を足してみてはどうでしょうか。

今年は12019年。

西暦で言う紀元前1年は10000年。紀元前2年は9999年。

12000年以上前のことは、歴史時代ではありませんので、この紀年法を用いる必要はありません。人類学・地質学の分野で今まで行われてきたように「〜年前」という表現を用いれば良いでしょう。

おそらく、歴史の授業で登場するのは、この新紀年法でいえば7000年以降の話になります。

ゼロ年がない問題は解決され、カウントダウンとカウントアップの問題も事実上解決されます。

その上、今私たちが用いている西暦をほぼそのまま活かすことができます(今だって100の位より上は省略したりするわけで、10000の位が発生したところで大して問題ないでしょう)。私たちが今「紀元前」と呼んでいる時代についてのみ、いくらか修正が必要になりますが、紀元前のことを日常的な会話の中に出すのは歴史の専門家くらいですので、普通の日常生活には影響を与えません。

 

いや、いくらなんでも、適当に10000を足すなんて、ふざけすぎだろう、というお叱りがありそうです。

が、これはあくまで不真面目な思考実験ですので、ご容赦いただきたいと思います。

でも、保立案が、人類共通の問題を起点としているという正当性と、BPとの合致というメリットを持つのと同じくらいには、この新紀年法も正当性とメリットを持ちます。

完新世(だいたい11700年くらい前からとされる)とだいたい合う、という正当性・メリットです。

 

だいたい新紀年0年の頃の世界はヤンガードリアスと言われる寒冷期。

まもなくこれが終わり、温暖な完新世が始まります。

その中で農耕が始まり、農耕のために人間は年月の移り変わりを今まで以上に気にするようになったはずです。

 

西暦に10000を足す、という適当な思いつきですが、

・「ゼロ年がない」問題を解決

・西暦よりも核時代よりも直線的(新紀年での"紀元前"は用いることを想定していない)

・西暦の使用を前提とした生活に影響を与えない

完新世とだいたい重なる

というメリットがあります。

西暦に70000を足して、トバ・カタストロフ、最終氷期の始まり、「認知革命」(サピエンス全史風に)とだいたい合わせる・・・というのも魅力的なのですが、このあたりは識者によって見解が違いそうなので、10000年を足す方を押してみましょう。

 

最後にひとつだけ言っておきたいと思います。

これは研究や学習のための利便性という観点からの思いつきであり、私自身はキリスト紀年、元号、干支、ヒジュラ暦皇紀などの様々な背景を持つ多様な紀年法の個人的使用を否定するつもりはありません。

ただ、保立氏の問題提起自体は、歴史に携わる者としては、真面目に捉えるべきなのかな、と思っています。

「嘲笑」「無視」〜「リベラル」でない意見を排除する"リベラル"〜

とある記者の質問や、反対党の議員からの質問を、嘲笑したり無視したりする政治家の姿を見て、どう思うか?

 

・・・と問えば、おそらく「リベラル」な人たちであれば、何人かの大物政治家の顔を思い浮かべ、何らかの批判を述べるでしょう。

 

まさに、今回掲げた「対話」の逆をいく態度です。

 

とある界隈の会合などに行けば、「朝日」「護憲派」「反原発派」などが嘲笑の対象になったりします。きっと、朝日読者、護憲派、反原発派などは行きづらいでしょう。

 

これもまた、自分たちの殻に閉じこもった態度で、深い学びはできていないのだろうな、と思います。その中で「いや、憲法は守るべきで・・・」とは言いにくいでしょう。

 

ところが、そんな雰囲気が、"リベラル"と思しき側の学習会でも出現したりするんですよね。

「産経」「改憲派」「原発推進派」などが嘲笑の対象になる雰囲気が。

(もちろん、それは一部だと信じていますが)

 

昨年度の全国大会では、閉会集会での若手の発言で、「産経」などを嘲笑する雰囲気に対する批判がなされました。

 

残念なことに、今年の全国大会でも、一部では、「まあ、この中には「改憲する」なんて馬鹿げた考えの人はいないと思いますが…」というような趣旨の発言があり、嘲笑する雰囲気があった、という報告を受けています。

 

瞬時にして、世の中の、そう少なくない何割かの「改憲」を主張する市民たちを見下す。

そういう人が憲法の授業をしていたら、さぞかし、「憲法を変えた方がいいんじゃないかなぁ」と思っている生徒が居づらい、発言しにくい空気を作ってしまっているのだろうな、と思います。

「まあ、この中には「改憲する」なんて馬鹿げた考えの人はいないと思いますが…」などと言って自由に議論できない雰囲気を作るのは、少なくともリベラルではないですね。

 

 

・・・なぜ、排除するのか。

 

「この中」に「改憲」を主張する人がいるのを、なぜ嫌がるのか。

 

少なくとも、歴教協の設立趣意書に、改憲派を積極的に排除するような文言はありません。

平和主義と民主主義をやめるべきだ、という改憲内容であれば別かもしれません(趣意書の内容からいっても)が、少なくとも本人が平和主義と民主主義の理念は守った範囲内での改憲を検討しているのであれば、そして歴史・教育に関心があるのならば、ともに学ぶべき対象に他なりません。

私自身は9条を今の段階で変えたいとは思いませんが、9条改憲という主張と平和主義・民主主義は、その人の思う「平和主義」などの定義によって、両立するものです。

「それは平和主義じゃない」と言い出す人もいるかもしれません。でも、それは、その人の思う平和主義とは違う、というだけのことです。

 

そもそも、件の発言をした人の中では、護憲が絶対正しくて、改憲が絶対間違っていて、改憲を主張する人は馬鹿だと思っているわけでしょう。

自分の意見を正しいと考えるのは構いませんが、正しいと思うなら、なおさら、「改憲」の人がいても、いいじゃないですか。大歓迎じゃないですか。

ご自慢の持論で、議論して、相手を護憲派にすればいいじゃないですか。

改憲派がひとり護憲派になるのだから、いいじゃないですか。

むしろ、「この中」に「改憲」を主張する人がいたら、大チャンスですよ?

・・・それとも、自信がないのでしょうか。

自信がないのかもしれませんね。

 

以前、「今日は皆で左翼教師を批判しましょう!」という記事で紹介した、「右」寄りの人たちを集めて私がサンドバックになって対応する歴史教育の学習会。とても学べるので、いろいろなところで紹介していますが、今のところ、実践したという人は聞いていません。

ぜひ、護憲が絶対正しくて、改憲が絶対間違っていて、改憲を主張する人は馬鹿だと思っている人がいたら、改憲派を集めて学習会をやってみてください。

あなたの持論を広めるチャンスです。

 

実際は、視野を広げるチャンス、なんですけどね。