全国大会を終えて〜歴教協の未来〜

暑い暑い埼玉まで足を運んで話にきてくださった皆様、ありがとうございました。

 

歴教協に新風を吹き込もう、旧態を打破しよう、という発想。

歴教協が今まで積み上げてきたことを守ろう、という発想。

一見、対立するように見えますし、実際に対立し得るのですが、冷静に立ち止まって考えれば、そこまで激しくぶつかる必要はないんです。

 

なぜ新風を吹き込む必要があるのか?

それは歴教協が今まで積み上げてきたことが失われるのを見たくないからです。

このまま若者が減っていったらどうなるか。

今の若者のニーズに応える団体へ、と考えるのは自然なことです。

 

時代の流れに柔軟に対応する。

これは、反対派に言わせれば、時流に迎合する、ということです。

若者が保守化・右傾化している、とよく言われる(本当かどうかは別として)わけですが、「右寄りの人たちも入りやすいようにしよう」などと意見すれば、「若者はやっぱり右傾化している」「その波が歴教協に入ってこないようにしよう」となるでしょう。

警戒する気持ちはわかります。

 

今回、何度も振り返ったのが、歴教協の設立趣意書でした。

このブログでもずいぶん言及してきました。

新風を吹き込もう、という側が拠り所にしているのが、設立趣意書だったりするわけです。

設立趣意書の精神に基づけば、一部の思想の持ち主だけでなく、多様な思想の持ち主が、歴史・教育に関心があるという理由で集まってくることを排除するものではありません。

仮に排除するものがあるとすれば(なくてもいいと個人的には思っていますが、仮にあるとすれば)、

「私たちはかぎりなく祖国を愛する」とあるので、祖国愛の足りない人は厳しいのかな、と。

「封建的なものや、ファッショ的なものを排除」とあるので、封建主義者やファシストは入会は難しいのかな、と。

「民主主義を発展させ、外には国際平和に寄与するようになることをねがう」とあるので、民主主義や国際平和を嫌う人はダメなのかな、と。

そういうことになりますが、「あいつの言っている平和主義は本物の平和主義じゃない」などと言って、9条改憲による国際平和実現を説く人を排除したら、それはおかしいわけです。

排除せずに対話して、9条を守った方が国際平和に寄与できるのか、変えた方が寄与できるのかを論じ合えばいいだけのことです。

(もっとも、祖国愛のない人でも、封建主義者やファシストでも、民主主義・国際平和に否定的な人でも、入ってきたら互いに学びになる空間の方が私は好きですが)

話が脱線しました。

 

一方、「時代に迎合するな」という意見の持ち主だって、設立趣意書の精神を大切にしているはずです。

ただ、異なるのは、設立以降の70年の積み重ねについての部分の評価でしょう。

 

多様な意見が入ってきにくいのは、設立趣意書の精神に反するのではないか。

いや、設立趣意書の精神に基づいて70年間活動してきた中で現状のような思想があるのだから、そうでないものを入れろというのは歴教協にふさわしくないのではないか。

 

ここを冷静に議論できる環境があるのかどうか。

 

ベテランからしてみたら、自分たちが積み上げてきたものを若者が壊そうとしているように見えたら、嫌がるのも自然でしょうね。

むしろ、私たちのような生意気な若者を受け入れて、自由闊達に活躍の場を準備してくれるベテランの懐の深さこそ尊敬すべきなのだろうと思います。

 

70年の老舗の民間教育団体。

700人の参加者を全国から集められる大所帯の民間教育団体。

これからどこへ行くのでしょうか。

歴教協は変われるか〜「あの発言」から1年〜

一年前、京都で開かれた歴教協全国大会の、閉会集会で、若者の勉強会Youth Salonを開いた若手教員が、15分間スピーチをしました。

Youth Salonの記事で書いた内容をベースにしつつ、いろいろなアドリブも入って大いに波紋を呼びかけたものです。

若者がどんどん少なくなっている歴教協。

若者にもっと来てもらうにはどうすれば良いのか、ということについて、以下のような見解が出てきました。

 

もちろん、今の教育現場があまりに忙しい、ということは前提の上で・・・

「どんな意見でも受け入れて議論できる環境づくりが必要だと思います」

「極端な話、安倍首相を私たちの学習会に招いて議論したって良いと思います。そうでなくても、安倍首相に近い人たちの意見を聞いたって良いと思います。聞いた上で何ができるのかを考えて議論する。聞かないことが、まずは問題なのではないかと思います」

「右寄りの人たちがどうのこうのと言っている一方で、左寄りの人たちだってかなり偏った意見を発しているんじゃないかな、というところから、たぶん、若い人たちが遠慮することが出てきているんじゃないか」

他に、広報の問題。SNS等を用いた広報など足りない。

それから、歴教協の授業実践の活用の問題。もっと若者に参考になる内容を、と。

終わってみれば盛大な拍手です。しかし・・・?

 

この発言の何が過激なのか、と考えた時に、不思議な点があります。

安倍首相を学習会に招く、なんてのは、たぶん、普通の感覚では、実現したら素晴らしいこと、自分の国の首相がきてくれることなんてあったらどんなに素晴らしいか、となるんじゃないかと思うんですが、この団体ではそうはならないんですよね。

アベ政治を許さない」等のスローガンを掲げている人が一定数いるという事実があり、それはそれで構わないのですが、安倍首相を別にそんなに嫌っていない普通の人が入りやすい環境とは、到底思えないわけです。

 

ちなみに、なぜかこの「安倍首相」発言は、「安倍首相を全国大会に呼ぶ」という意味であると誤解され、一部から猛烈な反発を買いました。

今、録音を聞き直したところ、そんなことは言っていないんですけどね(笑)。

 

 

誤解されるといけないので言っておきますが、基本的に上記の発言は歴教協のベテランからもある程度好意的に受け止められている印象です。

しかし、一部の、無視できない大きな声の持ち主からの反発があるのは確かですし、さらに困ったことに、その反発は、発言者本人へは届いていないんです。

批判するなら本人にすればいいのですが。

本人もその覚悟で発言しているのですが。

 

前回の記事でも書きましたが、歴教協の設立趣意書の精神は、

「すべての歴史および教育に関心をもつものが協力しなければならない」

です。

もちろん、設立趣意書の精神は、

歴史教育は、げんみつに歴史学に立脚し、正しい教育理論にのみ依拠すべきものであって、学問的教育的真理以外の何ものからも独立していなければならない」

ですから、歴史学なんてどうでもいい、都合の良い事実を羅列しよう、という立場の人たちは相いれません。

しかし、「げんみつに歴史学に立脚」しているかどうかを「私たち似たような思想の持ち主」が恣意的に判断し始めた瞬間に、たとえば「政治的中立性」をある種の権力者たちが恣意的に判断するのと同じような胡散臭さが発生します。

 

歴史教育は、げんみつに歴史学に立脚し、正しい教育理論にのみ依拠すべきものであって、学問的教育的真理以外の何ものからも独立していなければならない。」は、非常に厳しい言葉です。

歴教協にいるなら、その歴史教育が「げんみつに歴史学に立脚し、正しい教育理論にのみ依拠」しているか、判断せよ、と言っているのです。

どれだけの人がこれをきちんとできるのか、私は疑問です。

ここでまた、相変わらず、以前の記事でも紹介したイブン=ハルドゥーンの引用をさせていただくのをお許しいただきたい。

 

《イブン=ハルドゥーン著, 森本公誠訳『歴史序説(1)』(岩波書店, 2001年)p.113-114より引用》

(・・・)虚偽は歴史的情報にとって必然的な付きものである。それが避けられない理由はさまざまである。その一つは、特定の意見や学派への傾倒である。もしある人の心が、情報を容認するのに公平な状態にあれば、その情報に適した調査と考察を加える。そうすれば、それが真実か虚偽かは明らかとなる。しかし、もしもその心が特定の意見や宗派に傾倒していたならば、それに一致する情報を躊躇なく受け入れるであろう。偏見と傾倒は、批判的調査をするための洞察の眼を曇らせる。(・・・)

 

大切なことなのでもう一度言います。

 

「もしもその心が特定の意見や宗派に傾倒していたならば、それに一致する情報を躊躇なく受け入れるであろう。偏見と傾倒は、批判的調査をするための洞察の眼を曇らせる」

 

曇った目で、その歴史教育が「げんみつに歴史学に立脚し、正しい教育理論にのみ依拠」しているか、判断できるとは、私には、到底思えないのです。

憲法守ろう、アベ許さない、という結論に達する教育内容に対して甘くなるのでは、「げんみつに歴史学に立脚し、正しい教育理論にのみ依拠」しているとは言えないのです。

 

じゃあ、目が曇らないためにはどうすればいいのか?

私たち1人1人の頭には限界があります。

違う考えの人の考えを学ぶのが有効でしょう。

 

波紋を呼んだ「あの発言」から1年が経ちました。

歴教協は変われるのでしょうか?

歴教協は"左翼団体"か?〜設立趣意書の精神に戻る〜

歴史教育者協議会」という言葉でネット検索すると、「左翼」等の言葉が出てくることがあります。

 

で、タイトルの問い。

歴教協は"左翼団体"なのでしょうか?

 

私の答えは・・・

 

答えの前に、「左翼」の定義、「左翼団体」の定義から述べなければいけません。

これが難物です。

例えばですが、仮に、「左翼」を社会主義者と定義し、「左翼団体」を社会主義を是とする団体と定義したとしましょう。

私の答えは、「そうではないはず」「もしそうならやめる」です。

 

70年前、「設立趣意書」が書かれました。

読めばわかる通りです。社会主義でなければいけない理由はありません。

別に、新自由主義者でも、設立趣意書の精神と矛盾せずに存在することは可能です。

いや、新自由主義はこれと矛盾するのだ、と強弁する歴教協会員がいたら、どうぞ、私に論戦を挑んでくれば良いでしょう。

 

ただ、封建もファッショもダメというのが趣旨なので、呉智英氏や外山恒一氏はどうやら性に合わない団体のようです。

私個人としてはどちらの論者にも興味があるのですが、ここでは触れないでおきましょう。

 

歴史教育は、げんみつに歴史学に立脚し、正しい教育理論にのみ依拠すべきもの」

これがあるので、たとえば、歴史修正主義者はダメだ、ということになるのかもしれません。

しかし、その人物が歴史修正主義かどうかを判断するのは誰?判断基準は何?

あるいは、歴史学を真面目に学んだつもりでも、「げんみつに」基づけているかどうかはわからないです。

だいたい、この趣意書はヘイドン =ホワイト以前に書かれたものです。

 

ところで、

「私たちはかぎりなく祖国を愛する」

歴史教育国家主義と相容れないと同時に、祖国のない世界主義とも相容れない」

「正しい歴史教育は正当な国民的自信と国際的精神を鼓舞するものでなくてはならない」

国家主義はダメだけれど、祖国愛・国民的自信は必要。

これと同じ文言が学習指導要領に入ったら、批判する歴教協会員はおそらくいるでしょうね。

いや、この脱線はやめておきましょう。

 

さて。

「正しい歴史教育を確立し発展させることが私たちの緊急の重大使命であることを深く自覚する」と最初に書かれています。

しかし、その「緊急の重大使命」はクリアされていません。

その確立のためにはどうすれば良いのでしょう?

「このような歴史教育をうちたてるには、歴史学者歴史教育者と提携することはもとより、すべての歴史および教育に関心をもつものが協力しなければならないであろう。」

が、この趣意書に書かれる推測です。

「すべての歴史および教育に関心をもつものが協力」です。

「すべての歴史および教育に関心をもつものが協力」です。

大事なことなので二回言いました。

そこに、左翼でなくちゃダメとか、右翼はダメとか、そういうのはありません。

歴史教育は、(中略)学問的教育的真理以外の何ものからも独立していなければならない」のですから。

戦後歴史教育を「自虐史観だ」と批判する人たちは、どうみても歴史にも教育にも関心があるわけで、「歴史および教育に関心をもつもの」に含まれます。

たとえその依拠する歴史学や教育学に誤りがあったとしても、歴史や教育に関心がないというものではありません。

つまり、協力すべき対象となります。

「いや、彼らが興味を持っているのは歴史じゃない」、と強弁する歴教協会員がいたら、どうぞ、また私に論戦を挑んでくれば良いでしょう。

 

設立趣意書の主張が正しいのかどうかなど、私にはわかりません。

ただ、歴教協に所属している以上は、その精神を踏みにじってはいけないはずです。

まだ見ぬ「正しい歴史教育」を模索するために、「すべての歴史および教育に関心をもつものが協力」する環境を作る。

歴史教育に関心をもつすべての人が、こぞってこの会に参加」するような会を開く。

 

 

歴教協はその設立から70年経ちました。

「正しい歴史教育」があるのかどうかは知りませんが、その模索をやめて、異なる思想を排除する団体になってしまっていたら(そういうことはないはずなのですが)、先は見えているでしょうね。

 

これから始まる大会が、「すべての歴史および教育に関心をもつものが協力」できるような大会でありますように。

 

「キモくて金のないおっさん」「かわいそうランキング」を社会科教育は扱えるか?

「キモくて金のないおっさん」とは2015年にバズった言葉である。

一見、ひどい言葉に見える。

しかし、女性や子どもの貧困は語られても、語られにくい貧困・差別問題がある。

そこを突いたのが「キモくて金のないおっさん」論である。

「かわいそうランキング」は2017年。

こっちは意味がわかりやすいかもしれない。

 

2015年、電通若い女性社員が過労自殺をした。

大きな問題となった。

でも、過労で亡くなった人はそれ以前にも多かったはずだ。

なぜ、どんな人が亡くなるかによって反応が違うのだろうか?

 

「難民高校生」が話題になった。女子高生の闇が話題になった。

同じくらい苦しい「おっさん」たちは彼らに比べて話題になれるだろうか。

 

「キモくて金のないおっさん」論で「ん?」と思うのは「キモくて」という部分だが、これは敢えてのことらしい。

「客観的定量的に把握されない困難、物質的に解消されない困難を持っていることと、支援者の寡多を決める要素のことを「キモさ」と呼び表せると思ったため」と提唱者本人はTwitterで述べている。

結婚願望のある軽度の知的障害の方に対する冷めた反応を見たのがきっかけだという。

その表現が倫理的に適切かどうかはさておき、むしろ倫理的に不適切だからこそ意味があるのかもしれないが、「あなたはああいう人に対して「キモい」と感じたりしませんか?」と迫っている感じがする。

 

ここで、社会科の授業を振り返ってみよう。

 

マイノリティの貧困や差別の問題を扱う授業実践は少なくない。

しかし、貧困は、どのような立場の人であれ、貧困であれば苦しい。

差別もそうだ。

その原因が、例えば容姿であったら?

LGBTだからいじめられた、黒人だからいじめられた、などという事例は、授業で扱ったら、生徒から「ひどいね」と共感されるだろう。

でも、容姿を理由にいじめられる人がいたら?

コミュ力が劣る」でいじめられる人がいたら?

「仕事できない」でいじめられる人がいたら?

「臭い」でいじめられる人がいたら?

 

きっと、歴教協の全国大会へ行き、分科会で全国からの選りすぐりの授業実践を聞けば、様々な社会問題(そこで不利益が生じる人々)が扱われるのをみることができるだろう。

私は、そういった問題提起を否定することはしない。

でも、忘れられている人はいないか?

「キモくて金のないおっさん」「かわいそうランキング」などの問題提起は、それを突くものである可能性が高い。

ぜひ、突っ込んでみよう。

 

ただ、それが教育で扱える問題なのか、という問題がある。

だが、扱える不幸と扱えない不幸があるのならば、教育とは何なのか、という問題もある。

「他人を傷つけてはいけません」と言うのは簡単だ。

でも、誰かをみて「かわいい!」「イケメン!」と思う感情と、その逆を思う感情があった時に、それを抑えてフェアに接することはできるだろうか?

どうしても話がうまく通じない、仕事ができない人と、一を聞いて十を知る人とがいたときに、イライラを抑えてフェアに接することができるだろうか?

できないとしたら、どうすればいいのか?

 

「キモくて金のないおっさん」「かわいそうランキング」などの問題提起を受け止めずにマイノリティ問題は扱えまい。

若手の勉強会、Youth Salonの広がり

2017年10月、神奈川県歴史教育者協議会の若手を中心に、Youth Salonという学習会が発足しました。

35歳未満という年齢制限のもと、学生と若手教員が勉強会を始めたのです。

すると、2018年2月には埼玉Youth Salonが発足(発起人は私でした)。

そして、今年2月にはYouth Salon千葉が発足。

 

今、何が起こっているのでしょうか。

 

元祖である神奈川のYouth Salonは、以下のような問題意識をもとに始まりました。

(Youth Salon運営部「Youth Salon活動報告」(2018年3月16日)を参考にした)

(A) 現在、民間教育団体の多くで高齢化が進んでいる

(B) 現在の学生・若手教員は忙しい

 

(A)の原因として、彼らは3点を挙げていました。

(1) 思想的な偏重

(2) 過剰な若者「歓迎ムード」

(3) 団体の象徴的な人物の「カリスマ頼み」

 

これはどういうことを言っているのでしょうか。

私なりの解釈も含めて、簡単に書いておきたいと思います。

 

(1)については・・・

たとえば、護憲派改憲派が両方いて憲法の問題について自然に話し合える社会科の勉強会があるか、というと、あるのは知っていますが、多くはない印象です(私の周りに多くない、というだけだったらショックですが)。

参加者が、

「9条を改正するなんてとんでもない!!」

という気持ちを誰もが持っていることを前提に話していて、

その意見が正しいことが自明であるかのように話していて、

場にそのような空気ができてしまっていたら、

「9条変えたいんだけどなぁ」という人は参加しにくいですよね。

逆もまた然りですが。

産経新聞の記事なんですが」と言っただけで嘲笑が出る雰囲気の勉強会や、

朝日新聞の記事なんですが」と言っただけで嘲笑が出る雰囲気の勉強会は、

その空気だけで異なる意見を排除しています。

実際、私はどちらも経験したことがあります。

※この批判については、批判が出ており、それに対しては別の記事で。

 

(2)については・・・

若者が少ない勉強会となると、たまに若者がくると大変な歓迎をされたりするわけです。

それが却ってマイナスになることもあるでしょう。

若手が責任ある立場につけてもらったと思ったら、その意思はあまり反映されていなかった、なんてこともあるようです。

 

(3)については・・・

「○○先生の勉強会」という感じになってしまっていると、その「○○先生」がいなくなったら存続が難しくなる、ということですかね。

あるいは、その「○○先生」と思想信条の異なる人は入りにくいということかもしれません。

 

* * *

 

これらの要因がどこでも当てはまるかどうかはわかりませんが、私自身、意欲的な授業実践をしている若者を歴教協に誘ったところ、「左翼色が強いから気が進まない」という意味のことを言われて断られたことがありました。

そういう人こそ「左翼色が強い」と反発を感じるところに乗り込んで、バンバン議論しに来てくれたら嬉しかったのですが、日々の業務で疲労困憊の時に、そんな体力を使うことはしたくないですよね。

歴教協が「左翼」的かどうかについては今回は述べませんが、今まで出してきた声明を見る限り、ある一定の方向を向いているのは確かだと思います。

その方向性の分析や、その是非については今回の記事では言及しませんが、思想に関係なく活発に議論できる場所を望んでいる若者の方が多い印象です(私がそのようなタイプなので、そのような人が私の近くに多くなっているだけかもしれませんが)。

 

そして、(B)の問題、多忙化という問題についてですが、これを乗り切るためには、きちんとニーズに応えるというのが肝心です。

ニーズに応えるものであれば、忙しくても行きます。

神奈川のメンバーよると、学生のニーズは「模擬授業」、「教育活動の報告」であり、若手教員のニーズは「交流」だとのことです。

ちなみに、埼玉で私が新たなYouth Salonを開いた際には、それに加えて、歴史学や教育学を専攻している学生・院生から、歴史学や教育学の研究の最先端の動向を学びたい、という点を若手教員のニーズとして指摘しました。

多忙だからこそ、最新の研究動向についていけなくなってしまう恐怖があります。

研究の最先端である大学に身を置いている人たちから話を聞くのは、多忙な職場にいるからこそ必要なものと思っています。

 

しかし、このような勉強会の在り方には、批判もあるかもしれません(というか、既に起きています)。

35歳未満という制限は、裏を返せば、35歳以上を排除していることになります。

かく言う私も、昨年10月に35歳となり、埼玉Youth Salon退会を余儀なくされました。

 

しかし、これは「ベテランのいる勉強会を阻害する」ものでもありませんし、「ベテランがベテランだけの勉強会をする」ということがあっても構わないわけです。

 

私自身は、相手がベテランでも著名人でも面と向かって平気で批判する「無礼者」ですが、多くの若者は礼儀正しく、年上を尊重するので、ベテランの発言に対しては真っ向から批判しない傾向にあります。

ベテランと若手が混じって対等な勉強会を開くためには、ともすれば「権力者」になってしまうベテラン側の資質が相当問われることとなります(ベテランと若手が対等、と言える形で展開している勉強会の存在も知っています)。

また、(全てのベテランがそうというわけでも、ベテランだけがそうというわけでもないものの)質疑応答などで自分の経験から一方的に長々と話をするベテランがかなり見受けられ、迷惑なのも事実です。

 

先ほどの前提(A)(B)に加え、上記の問題点などを鑑み、止むを得ず年齢制限を設ける勉強会も開いている、というのが現状かと思います。

(もちろん、「35歳未満」としても、20歳前後の学生と、教員10年目の教員とが、全く対等に話せるか、というと、なかなか難しいかもしれませんが)

 

実際に開いてみたら、神奈川でも埼玉でもあっという間に30人くらいが集まり、毎回10〜15名程度前後の参加者による活発な学習会が開かれています。

ニーズに応えられていることの何よりの証拠ではないでしょうか。

また、神奈川と埼玉での交流もあり、お互いの実践から影響を受けて新たな実践が生み出される、という相乗効果も生まれています。

千葉も今後そういった発展を遂げていくものと思います。

 

批判はあるのはわかりますし、その批判を否定するものではありません。

でも、やっぱり、同世代でわいわいやりたい。

サークルのような気軽な(でも深い)ノリの勉強会があってもいいじゃないですか。

歴教協全国大会へ!〜予定調和はいらない〜

いよいよ歴教協全国大会です。

 

私は、歴教協で「護憲派」の識者が護憲を訴えれば、

護憲派護憲派に対して共感できる話をして、皆で"そうだねぇ"と声を揃えて、何か意味あるの?」

「ぜひ、次は改憲派の識者を呼びましょう!」

などと言って一部のお歴々から反発を買い、

"ウヨク"的なものを嘲笑する雰囲気があれば、

「"サヨク"的なものを嘲笑する人たちと同レベルですね」

「それだから若い人は入らないんですよ」

などと言ってさらに一部のお歴々から反発を買い、

にも関わらずもっと多くのお歴々からは暖かく迎え入れていただき、

たくさんの若い仲間も作ることができました。

だから、いろいろ文句を言いながらも、今のところはこの団体で勉強していますし、今回の大会ではかなり多くの部分に関わることになりました。

 

今回は全体会で内田良さんにご講演いただきます。

私は、問題点を可視化して、しっかり広報活動し、諸方面に手を伸ばし、実際に「変える」ことに成功している内田さんに、大変な期待をしています。

ただ「xxを許さない!」と声を荒げて、共感しあえる仲間だけとつるんでいるだけでは、その仲間がよほど多くない限り、何も変えられないか、反発を買って逆効果になるか、せいぜいその程度でしょう。

 

さらに、ただ一方的に講演を拝聴するだけ、「勉強になりました」「考えさせられました」というものではつまらないので、対話的な時間をとります。

 

ぜひ、皆様、話しにきてください。

当日受付もあります。草加に来てください。

歴教協っぽくない方々、大歓迎です。

私は、同じような思想の仲間だけで寄り集まって「そうだねぇ、xxは許せないよねぇ」と共感し合う予定調和の集会が大っ嫌いです。

「学校」をテーマに、思いを語り合い、自分と異なる考えを聞いて、受け入れたり論じあったりして、悩んで、でも少し展望を見出して、各自の持ち場に帰りましょう。

8月3日から5日、お待ちしています。

https://www.rekkyo.org/wordpress/wp-content/uploads/2019/05/069ba18d39d28f9e86fb396840e338d9.pdf

結局、選挙とは何か?

まず、以下の引用から確認してみましょう。

 

選挙制度の裏側の面にかんしては、一九六五年公民権法が作成されたのは、何百万人もの南部黒人に選挙権を保障するためだけではなく、すわりこみ、〈自由への行進〉、暴動などを終わらせるか、時代おくれのものとするためでもあったことを思いだしさえすればよい。「お忘れかもしれませんが、いまやあなたたちには選挙権があるのですよ」、議会はそう言っているように思われる」

(B.アンダーソン『比較の亡霊』(糟谷啓介・高地薫他訳)P.425より)

 

「選出された立法府の社会経済的構成や性別構成が、選挙民の構成といちじるしく異なっていることはよく知られている。たとえば、議員が、選挙民よりもずっと裕福で教養をもっているのはほとんどまちがいないことであるし、男性である可能性がはるかに高いだろう。(・・・)そうした専門家は、みずからの制度化された寡頭状態に強い利害関心をもっているだけでなく、そのほとんどが特定の社会階層、おおむね中産階級か上流中産階級の出身でもある。したがって、そうした条件に適合する集団にひらかれた選挙制度というものをーーー絶対君主制が貴族のヘゲモニーに特徴的なものであるようにーーーブルジョワジーの政治支配に特徴的なものであると考えるならば、(・・・)」

(B.アンダーソン『比較の亡霊』(糟谷啓介・高地薫他訳)P.426より)

※「そうした専門家」とは職業政治家のこと

 

「選挙政治というヤヌス神の影の顔は沈静化、言いかえれば、広範囲にわたる民衆の政治参加行動の権威失墜へと向かう傾向をあらわす。現代のシンガポール人民行動党インドネシア〈新秩序〉のような独裁政府が、選挙という芝居を定期的に上演することが有益であると考えているひとつの理由は、まさにここにある。」

(B.アンダーソン『比較の亡霊』(糟谷啓介・高地薫他訳)P.452より)

ヤヌス神:裏表の両面を持つローマの神

 

小難しいことを言っているように見えますが、簡単に言い直せば、

・選挙には、その他の民衆の政治参加行動(デモなど)を沈静化する効能もある。政治に物申したければ、投票すればいいじゃん、と。

・選挙で選ばれているのって、ブルジョア男性に偏っているよね。

ということです。

ブルジョア男性による支配の安定化に、選挙が寄与している、という一面を述べた部分ですね。

 

2007年の東京都知事選の政見放送において、革命家の外山恒一氏が「所詮、選挙なんか多数派のお祭りに過ぎない!」「どうせ選挙じゃ何も変わらないんだよ!」と言い放ったことは有名ですが、立場や思想は違えども、これもまた選挙の持つ限界に鋭く切り込んだものです。

 

日本の場合、とくに女性議員の割合が少ないことが知られています。

それに、女性がいくらか増えてきたといっても、女性閣僚についてかつてマツコ・デラックス氏が「スカートはいてても中身は男でしょ」と喝破していましたが、どんな形で女性が政界で活躍しているのか、という部分の考察抜きに「女性が増えた」と言っても仕方ありません。

 

また、日本は供託金が他国に比べて非常に高く、金がないと立候補がしにくい体制となっています(金がないと被選挙権を行使しにくくて、何が「普通選挙」だ、社会の教科書書き直せ!と思います)。

ただ、B.アンダーソンの引用からもわかるように、日本以外の国でも日本よりはいくらかマシであったとしても、ブルジョア男性の優位は見られるようです。

日本特有の問題としてだけでは捉えられない、議会制民主主義の抱える問題点である可能性も視野に入れなければいけません。

 

では選挙はダメなのか。議会制民主主義はダメなのか。

というと、それこそ、外山氏のようにそこで革命だ、ファシズムだ、と主張するのは一つの手でしょう。

私はなかなかそこまで踏み切れないのですが、現状を批判するには思想的な冒険も必要す。

いや、現状を肯定するなら、なおさら、でしょうね。

外山氏のみならず、呉智英氏のごとく封建主義を主張する、中田考氏のごとく領域型国民国家を批判してカリフ制を答えとする、等々、現状の体制と異なるものを求める論考を学ばずに、自分がどっぷり浸かっている現状を肯定するのは、井の中の蛙にすぎません。

それも、私のようなブルジョア男性が、ブルジョア男性にとって有利な現状、今の議会政治を肯定するというのは、あまりに自己批判が足りない気がします。

 

議会制民主主義そのものを批判するか、議会制民主主義の枠内で改善を図るか。

 

今回の選挙で、いつもならば当選しにくそうな候補者2名(れいわ新選組)が当選したことが話題になりました。

ここから始まった動きについて、「自分たちの代表を出す」ことの大切さをつぶやく声も見かけました。

ただ、社会にどこまで(どんな)影響を与えるのかは、これからわかることです。

 

そもそも、議会制民主主義の選挙には明らかな問題点があります。

(1) 数年に一度しか行われない

(2) 立候補者は政策のパッケージを主張することが多いので、その全てに賛同できることはほぼない(今回はワンイシューの政党があったが)

(3) 自分の投票によって誰かが議席を1つ手に入れても、その1議席だけで政治に与えられる影響は少ない

(4) とくに国政選挙では数万票の勝負なわけで、自分の1票など本当に影響力が少ない

(5) そもそも多数派が正しい保証はない(ナチスを選んだ多数派を見よ)

(6) 論点となる社会の諸問題について、経済学・法学その他の教養を私たちはたいていあまり持ち合わせていない

(7) 社会の諸問題が何なのかについての情報(ニュースなど)の何が本当で何が嘘で、何が誇張で何が歪曲なのか、わからない(→信じたいものを信じる人が多い)

(8) (日本では)お金がないと立候補できない

 

(6)(7)については、学校できちんと教育しろよ、という話も聞こえてきそうですが、主権者教育はしっかりせよ、と言われますが、現場では、「政治的偏向」だと批判されるのが怖くて踏み込めない、という先生方が多いのが実情です。

 

・・・とりとめなくなってきたので、教育に絡めてまとめましょう。

中学や高校には生徒会というものがあります。

そこで、学校内での政治がどれだけ機能しているでしょうか。

 

生徒会長を選ぶ選挙が形骸化していませんか?

出来レースで、信任投票になっていたり、全員が一堂に会して投票用紙にマルをつけるだけになっていませんか?

生徒会での選挙が、主張の異なる立候補者の間での争いになったら、選挙というものを理解しやすくなります(私の出身校は、幸い、各行事の小委員長まで含めてそういう選挙が行われて、盛り上がっていました)。

その理解とは、組織票の争いという現実的な側面も含めて、です。

xx部の票はA氏に行く、B氏は文化部系から人気が高い、等々ですね。

 

また、私の高校では、あくまで投票は自由だったので、行かない人もいる。無関心層からも票を集めようと立候補者は頑張る。それも選挙です。

 

ところで、あなたの1票が大切、だなんて言いますが、その影響力の小ささを考えても、本気でそう言えますか?

最初の1回は選挙に行ったけれど、その後は行かなくなった、という人もいます。幻滅したのかもしれませんね。上の(3)(4)で述べたように、自分の1票は微々たるもの。とてもやりがいを感じにくいシステムなんです。

でも、政治参加の機会は与えているんだ、多数決で決まったんだ、だから従え、と言えてしまうのが選挙の怖いところです。

 

むしろ、選挙の現実を知った上で、選挙に参加した方が、面白いのではないか、と思うんですよね。

今回はうちの選挙区では上2人は組織票で当選が確実、下2人は残念ながら不可能だから、残り1議席は真ん中2人の争いだな、どっちが自分に近いだろう、とか、考えながら行く方が、やりがいがありますよね。

 

話を生徒会に戻しましょう。

大切なのは公約ですね。

選挙の際に「行事を盛り上げる」「生徒の声を反映させる」のようなスローガン的なことではなく、その実現のための具体的な内容を公約として述べているか(生徒会担当の教員はそれを指導しているか)。

当選の際に確実にそれを実行しているか。

ダメな場合にはリコールの権利も生徒は持っているはずですが、きちんとそれも機能してるか。

 

そして、ここからがもっと大切です。

生徒会長を選ぶ選挙なんて、年1回しか無いんです。

投書箱みたいなものがあったり、代議委員会やら評議委員会やらと(呼び名は学校それぞれですが)呼ばれる立法機関が生徒会にはあることが多いはずです。

生徒総会も、年1回や2回でしょうが、緊急の議題の時には臨時で招集することもできたりすることが多いと思います。

生徒会の政治参加の機会は、生徒会長を選ぶ選挙だけではないんです。

日本も締約している「児童の権利に関する条約子どもの権利条約)」の第12条に、「締約国は、自己の意見を形成する能力のある児童がその児童に影響を及ぼすすべての事項について自由に自己の意見を表明する権利を確保する」とあります。

生徒会長を選ぶ選挙だけじゃ自分の意見を表明できない。

だから選挙以外のところで自分の意見を表明するんだ。

そういうことを生徒が日頃から学べていますか?

 

生徒会がきちんと機能していれば、選挙の大切さだけではなく、その限界や汚さ、選挙以外での政治参加についてもいくらか学ぶことができます。

政治参加に理想を抱かせ、上からお説教的に「大切だよ」と言うのではなく、政治参加を体感してもらうのです。

 

議会制民主主義がダメなのか、議会制民主主義のあり方を改善することでどうにかなるのか。

その結論はここでは出ませんが、議会制民主主義をもう少し機能させるための努力は可能だと思っています。

それでもどうにもなりそうにないなら、その時はその時です。

 

結局、選挙とは何か?

「選挙は大切だ」と教え込む教育で、卒業したら選挙には行かない生徒を育てるのではなく、「選挙」を相対的に捉え、投票に行くか行かないかはともかくとして、この社会をよりよくするために何をすべきかを考える生徒を育てられる教育を、と私は思っています。