結局、選挙とは何か?

まず、以下の引用から確認してみましょう。

 

選挙制度の裏側の面にかんしては、一九六五年公民権法が作成されたのは、何百万人もの南部黒人に選挙権を保障するためだけではなく、すわりこみ、〈自由への行進〉、暴動などを終わらせるか、時代おくれのものとするためでもあったことを思いだしさえすればよい。「お忘れかもしれませんが、いまやあなたたちには選挙権があるのですよ」、議会はそう言っているように思われる」

(B.アンダーソン『比較の亡霊』(糟谷啓介・高地薫他訳)P.425より)

 

「選出された立法府の社会経済的構成や性別構成が、選挙民の構成といちじるしく異なっていることはよく知られている。たとえば、議員が、選挙民よりもずっと裕福で教養をもっているのはほとんどまちがいないことであるし、男性である可能性がはるかに高いだろう。(・・・)そうした専門家は、みずからの制度化された寡頭状態に強い利害関心をもっているだけでなく、そのほとんどが特定の社会階層、おおむね中産階級か上流中産階級の出身でもある。したがって、そうした条件に適合する集団にひらかれた選挙制度というものをーーー絶対君主制が貴族のヘゲモニーに特徴的なものであるようにーーーブルジョワジーの政治支配に特徴的なものであると考えるならば、(・・・)」

(B.アンダーソン『比較の亡霊』(糟谷啓介・高地薫他訳)P.426より)

※「そうした専門家」とは職業政治家のこと

 

「選挙政治というヤヌス神の影の顔は沈静化、言いかえれば、広範囲にわたる民衆の政治参加行動の権威失墜へと向かう傾向をあらわす。現代のシンガポール人民行動党インドネシア〈新秩序〉のような独裁政府が、選挙という芝居を定期的に上演することが有益であると考えているひとつの理由は、まさにここにある。」

(B.アンダーソン『比較の亡霊』(糟谷啓介・高地薫他訳)P.452より)

ヤヌス神:裏表の両面を持つローマの神

 

小難しいことを言っているように見えますが、簡単に言い直せば、

・選挙には、その他の民衆の政治参加行動(デモなど)を沈静化する効能もある。政治に物申したければ、投票すればいいじゃん、と。

・選挙で選ばれているのって、ブルジョア男性に偏っているよね。

ということです。

ブルジョア男性による支配の安定化に、選挙が寄与している、という一面を述べた部分ですね。

 

2007年の東京都知事選の政見放送において、革命家の外山恒一氏が「所詮、選挙なんか多数派のお祭りに過ぎない!」「どうせ選挙じゃ何も変わらないんだよ!」と言い放ったことは有名ですが、立場や思想は違えども、これもまた選挙の持つ限界に鋭く切り込んだものです。

 

日本の場合、とくに女性議員の割合が少ないことが知られています。

それに、女性がいくらか増えてきたといっても、女性閣僚についてかつてマツコ・デラックス氏が「スカートはいてても中身は男でしょ」と喝破していましたが、どんな形で女性が政界で活躍しているのか、という部分の考察抜きに「女性が増えた」と言っても仕方ありません。

 

また、日本は供託金が他国に比べて非常に高く、金がないと立候補がしにくい体制となっています(金がないと被選挙権を行使しにくくて、何が「普通選挙」だ、社会の教科書書き直せ!と思います)。

ただ、B.アンダーソンの引用からもわかるように、日本以外の国でも日本よりはいくらかマシであったとしても、ブルジョア男性の優位は見られるようです。

日本特有の問題としてだけでは捉えられない、議会制民主主義の抱える問題点である可能性も視野に入れなければいけません。

 

では選挙はダメなのか。議会制民主主義はダメなのか。

というと、それこそ、外山氏のようにそこで革命だ、ファシズムだ、と主張するのは一つの手でしょう。

私はなかなかそこまで踏み切れないのですが、現状を批判するには思想的な冒険も必要す。

いや、現状を肯定するなら、なおさら、でしょうね。

外山氏のみならず、呉智英氏のごとく封建主義を主張する、中田考氏のごとく領域型国民国家を批判してカリフ制を答えとする、等々、現状の体制と異なるものを求める論考を学ばずに、自分がどっぷり浸かっている現状を肯定するのは、井の中の蛙にすぎません。

それも、私のようなブルジョア男性が、ブルジョア男性にとって有利な現状、今の議会政治を肯定するというのは、あまりに自己批判が足りない気がします。

 

議会制民主主義そのものを批判するか、議会制民主主義の枠内で改善を図るか。

 

今回の選挙で、いつもならば当選しにくそうな候補者2名(れいわ新選組)が当選したことが話題になりました。

ここから始まった動きについて、「自分たちの代表を出す」ことの大切さをつぶやく声も見かけました。

ただ、社会にどこまで(どんな)影響を与えるのかは、これからわかることです。

 

そもそも、議会制民主主義の選挙には明らかな問題点があります。

(1) 数年に一度しか行われない

(2) 立候補者は政策のパッケージを主張することが多いので、その全てに賛同できることはほぼない(今回はワンイシューの政党があったが)

(3) 自分の投票によって誰かが議席を1つ手に入れても、その1議席だけで政治に与えられる影響は少ない

(4) とくに国政選挙では数万票の勝負なわけで、自分の1票など本当に影響力が少ない

(5) そもそも多数派が正しい保証はない(ナチスを選んだ多数派を見よ)

(6) 論点となる社会の諸問題について、経済学・法学その他の教養を私たちはたいていあまり持ち合わせていない

(7) 社会の諸問題が何なのかについての情報(ニュースなど)の何が本当で何が嘘で、何が誇張で何が歪曲なのか、わからない(→信じたいものを信じる人が多い)

(8) (日本では)お金がないと立候補できない

 

(6)(7)については、学校できちんと教育しろよ、という話も聞こえてきそうですが、主権者教育はしっかりせよ、と言われますが、現場では、「政治的偏向」だと批判されるのが怖くて踏み込めない、という先生方が多いのが実情です。

 

・・・とりとめなくなってきたので、教育に絡めてまとめましょう。

中学や高校には生徒会というものがあります。

そこで、学校内での政治がどれだけ機能しているでしょうか。

 

生徒会長を選ぶ選挙が形骸化していませんか?

出来レースで、信任投票になっていたり、全員が一堂に会して投票用紙にマルをつけるだけになっていませんか?

生徒会での選挙が、主張の異なる立候補者の間での争いになったら、選挙というものを理解しやすくなります(私の出身校は、幸い、各行事の小委員長まで含めてそういう選挙が行われて、盛り上がっていました)。

その理解とは、組織票の争いという現実的な側面も含めて、です。

xx部の票はA氏に行く、B氏は文化部系から人気が高い、等々ですね。

 

また、私の高校では、あくまで投票は自由だったので、行かない人もいる。無関心層からも票を集めようと立候補者は頑張る。それも選挙です。

 

ところで、あなたの1票が大切、だなんて言いますが、その影響力の小ささを考えても、本気でそう言えますか?

最初の1回は選挙に行ったけれど、その後は行かなくなった、という人もいます。幻滅したのかもしれませんね。上の(3)(4)で述べたように、自分の1票は微々たるもの。とてもやりがいを感じにくいシステムなんです。

でも、政治参加の機会は与えているんだ、多数決で決まったんだ、だから従え、と言えてしまうのが選挙の怖いところです。

 

むしろ、選挙の現実を知った上で、選挙に参加した方が、面白いのではないか、と思うんですよね。

今回はうちの選挙区では上2人は組織票で当選が確実、下2人は残念ながら不可能だから、残り1議席は真ん中2人の争いだな、どっちが自分に近いだろう、とか、考えながら行く方が、やりがいがありますよね。

 

話を生徒会に戻しましょう。

大切なのは公約ですね。

選挙の際に「行事を盛り上げる」「生徒の声を反映させる」のようなスローガン的なことではなく、その実現のための具体的な内容を公約として述べているか(生徒会担当の教員はそれを指導しているか)。

当選の際に確実にそれを実行しているか。

ダメな場合にはリコールの権利も生徒は持っているはずですが、きちんとそれも機能してるか。

 

そして、ここからがもっと大切です。

生徒会長を選ぶ選挙なんて、年1回しか無いんです。

投書箱みたいなものがあったり、代議委員会やら評議委員会やらと(呼び名は学校それぞれですが)呼ばれる立法機関が生徒会にはあることが多いはずです。

生徒総会も、年1回や2回でしょうが、緊急の議題の時には臨時で招集することもできたりすることが多いと思います。

生徒会の政治参加の機会は、生徒会長を選ぶ選挙だけではないんです。

日本も締約している「児童の権利に関する条約子どもの権利条約)」の第12条に、「締約国は、自己の意見を形成する能力のある児童がその児童に影響を及ぼすすべての事項について自由に自己の意見を表明する権利を確保する」とあります。

生徒会長を選ぶ選挙だけじゃ自分の意見を表明できない。

だから選挙以外のところで自分の意見を表明するんだ。

そういうことを生徒が日頃から学べていますか?

 

生徒会がきちんと機能していれば、選挙の大切さだけではなく、その限界や汚さ、選挙以外での政治参加についてもいくらか学ぶことができます。

政治参加に理想を抱かせ、上からお説教的に「大切だよ」と言うのではなく、政治参加を体感してもらうのです。

 

議会制民主主義がダメなのか、議会制民主主義のあり方を改善することでどうにかなるのか。

その結論はここでは出ませんが、議会制民主主義をもう少し機能させるための努力は可能だと思っています。

それでもどうにもなりそうにないなら、その時はその時です。

 

結局、選挙とは何か?

「選挙は大切だ」と教え込む教育で、卒業したら選挙には行かない生徒を育てるのではなく、「選挙」を相対的に捉え、投票に行くか行かないかはともかくとして、この社会をよりよくするために何をすべきかを考える生徒を育てられる教育を、と私は思っています。