歴史と地理と・・・ 〜リュシアン・フェーヴル先生は厳しい〜
・・・歴史家よ、地理学者でありなさい。同じく法学者、社会学者、心理学者でありなさい。物理的世界の諸科学を、諸君の眼前でめくるめくような速さで変えている偉大な運動に目を閉じてはなりません。そればかりか実生活をも生きなさい。荒れ狂う海に生じていることを、岸辺から物憂げに眺めるだけで満足してはならない。・・・
(リュシアン・フェーヴル著, 長谷川輝夫訳『歴史のための闘い』(平凡社, 1995年)p.63-64)
最近、「地理総合」必修化に備えて、地理の勉強をちょっと始めています。
こういうことを知らずに歴史を語れないよな、と思うことの連続です。
考えてみれば当たり前のこと。人はその上で時間とともに歩んできたのですから。
そして、歴史という学問は、その営みの分析から人間社会を考察するものなのでしょうから。
・・・などと思っていたら、上記の厳しいお言葉を突然思い出しました。
アナール学派の巨匠、リュシアン・フェーヴル(1878〜1956年)が1941年に高等師範学校で行なった講演での一節です。
説教されているようです。
こら、地理だけじゃ足りないぞ、と。
法学、社会学、心理学。そして自然諸科学。何でも学びなさい、と。
それでは、学問に没頭する毎日になってしまいそうですが、
いや、それだけじゃダメだ、とさらに畳み掛けてきます。
実生活、ですね。
実生活、というと、リュシアン・フェーヴルと並び称されるアナール学派の巨匠、マルク・ブロック(1886〜1944年)が、名著『歴史のための弁明』の中で、アンリ・ピレンヌ(1862〜1935年)のこんなエピソードを語っています。
「マホメットなくしてシャルルマーニュなし」というピレンヌ・テーゼで有名な人物ですね。
マルク・ブロックがアンリ・ピレンヌとともにストックホルムに行った時(なんと豪華な組み合わせでしょう!)、
アンリ・ピレンヌがマルク・ブロックにこう言ったそうです。
「まず何を見ましょうか。真新しい市庁舎があるそうですよ。それから始めましょう」
「もし私が好古家なら、古いものにしか目を向けないでしょう。しかし私は歴史家なのです。ですから生を好むのです」
(マルク・ブロック著, 松村剛訳『新版 歴史のための弁明 ― 歴史家の仕事』(岩波書店, 2004年)p.25)
古代遺跡ばかりをめぐって旅している私などは、とうてい歴史家とは言えないのだろうな、と深く反省するばかりです。
今何が起こっているのか、というところから出発しないと。
かつて上原専禄が中心となって世界史の教科書の編纂に取り組んだ時に、
「まず現在の日本の直面している危機の分析からはじめましょう」
(西嶋定生「八年間のゼミナール」(『図書』第133号, 1960年10月)より)
という上原の言葉から始まった、とエピソードを大学時代に教わって驚いたことがあります。
どの地域、どの時代を叙述するにしても、その出発点は「日本の直面している危機」から。
「ストックホルムの真新しい市庁舎」と「日本の直面している危機」ではずいぶんと毛色の違うものですが、いずれも、
「荒れ狂う海に生じていることを、岸辺から物憂げに眺めるだけで満足してはならない」態度で歴史に臨んでいるものです。
最初にリュシアン・フェーヴルの言葉を引用しましたが、厳しさでは、先の記事で紹介した中世イスラームの歴史家、イブン・ハルドゥーンも負けていません。
多くの高名な歴史家たちの過ちをつぶさに紹介したあとで、こんなことを言います。
・・・このような間違いについて長く議論することは、本書の目的からむしろかけ離れているように思えるが、有能な人でもすぐれた歴史家でも、大抵はこのような物語や主張に足を踏みすべらし、そうした考えにはまり込んでしまう。考え方が薄弱で無批判な人の多くは、このような話を彼らから学ぶわけであるが、有能な歴史家でさえ批判的調査もせずに承認してしまい、彼らの資料にその話を加える。その結果、歴史学は無意味でこんがらがったものになり、その学徒は混乱する。あげくに歴史学は、凡人の領域と考えられるようになる。・・・
(イブン・ハルドゥーン著, 森本公誠訳『歴史序説(1)』(岩波書店, 2001年)p.92)
念のために言っておきますが、歴史学が「凡人の領域と考えられるようになる」とは、現代の状況に対する批判を述べているのではありません。
では、どうすれば良いのでしょう?イブン・ハルドゥーン先生!
・・・したがって、今日この分野の学者には、政治の原則や存在物の性質に関する知識、民族・地域・時代の相違によってみられる生活様式や道徳、慣習や宗派や学派、その他あらゆる状態の相違に関する知識が必要とされる。そのうえ歴史家には、これらすべての現在の状態について包括的な知識も要求される。・・・
(イブン・ハルドゥーン著, 森本公誠訳『歴史序説(1)』(岩波書店, 2001年)p.92)
もはや、リュシアン・フェーヴルも顔負けの厳しさです。
ところが、実際に『歴史序説』は、それを実現してしまっている大著なので、私たちは何一つ文句を言うことはできません。
なんと、イブン・ハルドゥーンよりも400年も古くから、イスラームの歴史家にはそのような傾向があったようですね。
・・・マスウーディーはこの著書(『黄金の牧場』)で、彼の時代、すなわち330(西暦940)年代の東西にわたる諸民族と諸地域の状態について説明している。彼は各地域における諸民族の宗派や慣習を述べ、さらにそれぞれの国、山、海、州、王朝について叙述するとともに、アラブ人と非アラブ人を区別した。・・・
(イブン・ハルドゥーン著, 森本公誠訳『歴史序説(1)』(岩波書店, 2001年)p.104)
そんなのは、諸学問が細分化されていない時代だから出来たことなのだろう、と言いたくなるところです。
というか、彼らの主張を真に受けていたら、歴史家が求められるものはあまりにハードルが高いように感じられてしまい、私のような非才の者には到底手の出せるものではないような気すらしてしまいます。
いや、とてつもない秀才をもってしても、それは途方もない作業のようです。
このような歴史家の営みを見事にこなした人物として、フェルナン・ブローデル(1902〜1985年)の名前をあげても構わないでしょう。
ブローデルは言います。
「4世紀間にもわたる、しかも世界全体を対象にして、かくも膨大な事実や解釈を一体どのようにして系統立てることができるだろうか?」(フェルナン・ブローデル著, 金塚貞文訳『歴史入門』(中公文庫, 2009年)p.14)
そして彼は、「『地中海』の歴史に25年を、そして『物質文明』に20年近くを費やしてしまった」(同著p.12)のです。
さて、ブローデルになれない私たちができることは何でしょうか?
いろいろな学問をちょっとずつ齧って、諸学問分野に語り合える仲間を作って、
でも日々の生活から離れて学問の館に閉じこもるのではなく、・・・。
そういう形で騙し騙しやっていく他はなさそうです。
8月の歴教協埼玉大会に向けて「対話」をテーマに取り組んできましたが、
この記事では別の学問分野との対話、実社会の様々な人々との対話、
ということの重要性について、地理を勉強しながら、いや、サボりながら思ったことをつらつらと述べさせていただきました。
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今年の夏の歴教協全国大会in埼玉(8/3〜8/6)の詳細は以下のサイトをご参照ください。
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