「共感できる内容」の罠〜イブン=ハルドゥーンに学ぶ〜
「歴史教育への批判を現役歴史教師にぶつける会」などの開催でお世話になっていた勉強会では、以下のような感想が禁止されていました。
「勉強になりました」
「考えさせられました」
いずれも、何がどう勉強になったんだよ、何考えたんだよ、と言いたくなる感想ですね。
個人的には、
「難しい問題だなと思いました」
みたいなのも似たようなものだと思います。
難しい問題を考えるために勉強しているわけで、何とも薄い感想です。
一方、それ以上に罠だな、と思うのが、
「共感できる内容でした」
というものです。
本・報道でも講演でもそうですが、共感できる内容のものがあると、嬉しいです。
たとえば、日本国憲法を変えたくない人は、日本国憲法の価値を高く評価したり、改憲のリスクや、その背景にある「改憲派の企み」みたいなものについての主張を聞くと、そうそう!、と納得しがちです。
逆もまた然りです。
また、ある人は産経新聞の情報と聞いただけで嘲笑して疑いの目を向ける。
ある人は朝日新聞の情報と聞いただけで嘲笑して疑いの目を向ける。
共感できる内容でなかったら、その情報は本当かな、とメディア・リテラシーを発揮するのに、
共感できる内容だったら疑いなく信じてしまう。
偉そうに言いましたが、私がそういった罠に引っかからない人間だ、と言っているのではありません。
「学問としての歴史学の父」とも言われるイブン=ハルドゥーン(1332〜1406)は、『歴史序説』の中で、こんなことを言っています。
《イブン=ハルドゥーン著, 森本公誠訳『歴史序説(1)』(岩波書店, 2001年)p.113-114より引用》
(・・・)虚偽は歴史的情報にとって必然的な付きものである。それが避けられない理由はさまざまである。その一つは、特定の意見や学派への傾倒である。もしある人の心が、情報を容認するのに公平な状態にあれば、その情報に適した調査と考察を加える。そうすれば、それが真実か虚偽かは明らかとなる。しかし、もしもその心が特定の意見や宗派に傾倒していたならば、それに一致する情報を躊躇なく受け入れるであろう。偏見と傾倒は、批判的調査をするための洞察の眼を曇らせる。(・・・)
ちなみに、イブン=ハルドゥーンが挙げる他の理由は、
・「資料の伝達者に対する盲信」
・「事件の意義に対する無知」により「自分で仮定や推量した意義を与える」
・「事件の真実性に関する根拠のない憶説」
・「事件の様相が把握の曖昧さと人為的なこじつけによって、さまざまに変わってしまうこと」
・「人々は一般に賛美と賛辞でもって高位高官の人々に近づく」
・「文明に起こるさまざまな状態が如何なる性質を持っているか、という点について無知なこと」
などです。
これは、今の社会で起こっているマスメディアの問題に当てはめても、そのまま言えることなのではないでしょうか。
ちなみに、同著の中でイブン=ハルドゥーンは、
まず、かつてのイスラームの歴史家たちの犯した過ちを厳しく列挙し、
上記の引用部分を述べた上で、
最後の理由(文明の性質についての無知)を踏まえて、文明の諸容態について地理・気候などの情報から分析していきます。
歴史を語るには、まずはそこから、なのです。
さて、ここで、私がこのブログで再三宣伝している歴教協を振り返ってみましょう。
70年前に書かれた設立趣意書には、以下のような文言があります。
「歴史教育は、げんみつに歴史学に立脚し、正しい教育理論にのみ依拠すべきものであって、学問的教育的真理以外の何ものからも独立していなければならない。」
この文言の解釈はいろいろあるのかもしれませんが、
やはり、イブン=ハルドゥーンが「虚偽」の発生要因として第一に挙げた「特定の意見や学派への傾倒」などは、気をつけなければならないものなのだろうと思います。
歴史について誤った叙述が発生する原因については、イブン=ハルドゥーンの時代も、今も、変わらないと思います。
もちろん、自分の信念やら思想信条やらがあってはいけない、ということではないでしょう。
というか、あってはいけない、と言われても困ります。皆、ありますから。
肝心なのは、それが「洞察の眼を曇らせる」危険性を持つものだ、ということを常に認識し続けることなのではないかと思っています。
自分の傾倒している思想の持ち主の講演を聞きに行き、
共感できる内容だと感じて嬉しくなり、
自分の思想が補強されたように感じる。
そんな時こそ、本当に大丈夫かな、と立ち止まりたいものです。
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今年の夏の歴教協全国大会in埼玉(8/3〜8/6)の詳細は以下のサイトをご参照ください。
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